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クサイものにフタをしないインド    ーGazipurのゴミ山見学

以前の記事で一度紹介した小学5年生の太郎君が、なんとその後、デリーの我が家にやってくることになった。太郎君は、海洋プラスチック問題の自由研究をする中でプラスチックの規制が進んでいるインドに興味を持ち、その後もインドの本を読んだりとインドへの関心を深めていった。

せっかくゴミ問題からインドに興味を持った太郎くんがインドにきてくれるので、少しでもインドのゴミ問題について知る機会を作りたいと思い、ゴミ山見学を企画した。


インドのゴミ処理

私が住む地域では、ゴミは全く分別しない。お隣のコロニーでは3つに分別するらしいけれど、我が家では生ゴミもペットボトルも、ビール瓶も子供のおむつも全部一つの袋に入れ、毎日ゴミおじさんが回収に来る。月に200ルピーを支払う以外、ごみおじさんとの接点はまったくなかった。分別しないことにかんしては、最初こそ罪悪感はあったものの、すぐに慣れてしまったし、厳しすぎる佐久の分別に比べたらラクチンで天国のようだった。

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ゴミおじさんがゴミを回収したあと、近くの集積場に持っていっていることまでは知っていたし、どうやらそこで紙ゴミやプラスチックなどの資源ごみは、ピッカーと呼ばれる人たちがピックアップしてどこかに売っているらしいこともなんとなく知っていた。だけど、その後そのゴミが一体どこに運ばれてどう処理されているか、お恥ずかしながら見当がつかなかった。そもそも集積場で拾われた紙ゴミやプラゴミががどのようにして売られていくのか、売られた後どうなっていくのか、そのあたりもまったくわかっていなかった。

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そんな時に知ったのが、インドのゴミ山のことだった。ドライバーさんが、「デリーには山がないけどゴミの山はあるんだ」とぽろっとこぼしたことがあって、ゴミの山?なにそれ詳しく知りたい!といろいろ聞いて回ってみた。

するとなんと、幸運なことに、一緒にヒンディー語を勉強している仲間の一人が、日本にいた時に環境問題の研究をしていたという事実が判明した。しかもご主人は現役で環境問題に関する仕事をしているのだとか。これはチャンス!ということでいろいろと疑問をぶつけてみた。ついでにデリーのゴミ山をアテンドしてくれないかお願いしてみた。(図々しい…)

Yさんは、無知で勉強不足の私の質問に対してもとっても真剣に答えてくれ、さらにゴミ山見学のアテンドも快く引き受けてくださった。

そんなわけで、太郎くんの研究から端を発したデリーのゴミ山見学ツアーは、環境問題の専門家ご夫婦という強力な助っ人を得て実行する運びになった。


デリーのゴミ

Yさんご夫妻によると、デリーには知られているゴミ山が3つあり、他にも小さな山もあるのではないかということだった。よく知られている3つのゴミ山はそれぞれオクラ(Okhla)、バルスワ(Balswa)、ガジプール(Gazipure)にある。そして確かにまちなかを歩いていると、小さなゴミの山がでーんと存在感を放っているのを見かけることがある。

Yさん(ご主人)はオクラとバルスワは視察で行かれたことがあるそうだ。オクラは比較的綺麗に整備されていて、将来的には公園を作る予定なのだとか。ガジプールに関しては、そもそも視察の申し出を断られたのだと言う。調べてみると、最近もゴミ山が崩れて死者が出たようなものすごいゴミ山のようだ。

https://www.afpbb.com/articles/-/3228409?pid=21336171

これはぜひガジプールに行ってみてみたい、というわけで、太郎くん率いる豪華ゴミ山ツアーメンバーズは、デリー東部に位置するガジプールのゴミ山山に見学に行くことになった。

ゴミ山が近づくと異様なほどの鳥が上空を飛んでいるのがまず目に入った。(猛禽類だとYさんは言った)

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車を降りると多少のニオイはあったが、想像していたほどきついニオイではなく、外から見る分には本当に“山”だった。

Yさんによると、地域ごとにどこのゴミ山に運ばれるか決まっているそうだ。(といっても私が住む南デリーのごみは、実はゴミ山に運ばれるわけではなくゴミ処理場に運ばれて焼却されるのだそう。)

私達が滞在したたった30分程度の間にも、何台もの大きなトラックが出入りしていて、覗き込む限り、積まれたゴミは特に分別された様子はなく、ゴミ袋がそのまま乗っているのも見えた。

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ゴミ山の敷地入り口にはトラックごとゴミを計量できるようになっていて、重さによってトラックの運転手は賃金をもらえるのだとか。

そのためかなんなのか、コレ本当にゴミ?というような、石クズ?のようなものだけを積んだトラックなんかも入っていった。

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このままゴミを積み上げ続けたら、じきにタージマハルよりも高くなるらしい。既に何人かなだれによる犠牲者も出ているし、もちろん臭いや有害物質の不安もある。そもそも分別してできることがあるゴミを何もせずそのまま積み上げ続けるのはあまり良いとは言えないのだろう。

ガジプールの全貌が撮影された動画を発見したのでリンクを張っておく

https://youtu.be/oDEnvzx2Jt4

臭いものにフタをしないインド!?

答えのない社会問題や環境問題は、多くの場合とても複雑な要素が相互に影響しあっていて、答えが見つからないどころか、簡単には語れない。複雑過ぎて、考えるのをやめてしまう。私にとって、環境問題はまさに思考を停止してしまうテーマの一つだった。

そういう“臭いものにはフタ”的なテーマが他にもいくつかあると思う。

たとえばインドの路上で窓を叩いてくる路上生活者の子どもたち。彼らにどう対応するのがいいのかインドに来て1年経とうとする今でもまだわからない。インドではたくさんの物乞いの人達が窓を叩いてくる一方で、日本にもたくさんいるはずの困窮した人たちはできるだけ存在感を消しているように感じる。

窓を叩くインド人と、息を潜める日本人。そこには一体何の違いがあるのだろうか。きっと国の文化的背景や、私の知らないところで流れているであろうお金の動きや、社会的な制度や、いろんなものが絡んでいるはずだ。インドで見かける物乞いは、それが一つの職業のようにも見えてくる。実際そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

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日本にいたらきっと、こんな感情は持たずに済んだだろう。息をひそめる人たちの存在はなかったことにして、安穏と暮らしていた。インドに来て、毎日何回も窓を叩いてくる子どもたちの姿を突きつけられ、否応なく彼らのことを考えざるを得なくなったし、毎回複雑な感情を抱くことになった。でもこれは、日本にいて知らんぷりをして生活を続けているようりも、もしかしたら良かったのかもしれないと、少し思う。

ずっと「No」を貫き通すのがいいとも思えないけれど、気が向いたときだけ食べ物やお金をあげるのが正解とも思えないし、ボランティア活動に参加して自分のエゴを満たしてごまかすのも違うのではないかと感じている。(もちろん素晴らしいボランティア活動がたくさん存在していることも理解している)

私の好きな作家の一人である西加奈子さんが、このなんとも言えない感情についてよく小説の中に取り入れている。幼少期を外国で過ごした西さんにとってもきっと印象深い感情だったのだろう。そしてきっと、小説で「その感情」を取り上げることが、彼女なりの一つの答えだったのだろう。

私はストーリーを知りたい。でも、私にはまだ「言葉」がない。私のヒンディー語はほとんどまだ使い物にならない。タクシーの運転手への指示とか買い物のときの会話とか、そんなことにしか使えない私の言葉は、まだ魂がないに等しい。

障害とか障害者とかについても、私にとってはほんの数年前まで“フタ”をしていテーマだった。障害がある人に対して、差別、という気持ちは毛頭なかったし、普通に接しているつもりだった。でも、「普通に接しているつもり」だと自分で思うこと自体がもう普通ではなくて、どうにも自分の中に処理しきれない感情があることに気づき、考えると苦しくなった。だから見て見ぬふりをすることにした。そっとフタをして、考えるのをやめたのだ。

けれども4年前、重度の障害を持った娘が生まれた。彼女の存在が、そのフタをそっと開けてくれた。私にとって娘は、優劣で語るような存在ではなかった。目が見えなくて首を起こせなくて言葉がしゃべれないけれど、そんな彼女の存在は、むしろ私の知らなかった新しい世界をたくさん持っているように見えて、少しワクワクすらした。(無論困難なことはたくさんある。)重度障害児の娘は、私にとって、ただのかわいい娘でしかなかった。

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インドに来てびっくりしたのが、どこに連れていっても、「彼女はどうして車椅子なの?」「目に問題があるの?」と誰かしら聞いてくることだ。旅先のレストランでは「彼女が食べられるものを用意しようか?」とウエイトレスさんが聞いてきたし、先日は車椅子を押してモールを歩いていたら、見知らぬ青年が愛しそうに娘のほっぺたを触れていった。「なんて柔らかくて可愛らしいの」と言ってくれる人もたくさんいるし、「彼女のために祈るわ」と言ってくれる人もいた。

日本ではたぶん逆だ。多くの人が彼女がなぜ車椅子なのか?と思っていながら、誰も直接聞いてくることはない(こどもは別)。触れては悪いかな、聞いちゃまずいかな、とみんな思っているのだと思う。その気持はよく分かる。私もそうだったし、私も日本人だから。

でもインドのオープンな空気にずいぶん安心したのも事実だ。気軽に娘のことを聞いてくれる雰囲気は、とても心地が良かった。

普通の人と違う人を見るとそっと目をそらす日本人と、ガツガツ聞いてくるインド人。

もしかしたらインドでは、クサイものにフタなんてしないのかもしれない。そもそもクサイものとクサくないものの区別なんてないのかもしれない。インドでも、インドじゃなくても。

環境問題も私にとっては同じで、考えると複雑すぎて、思考を停止してしまうテーマの一つだった。けれども今回のことをきっかけに、もう一度整理して考えてみようと思うようになった。

綺麗にゴミを分別して、処理に困ったゴミを外国に輸出して街は一見綺麗な日本と、街中にゴミが散らかっているインド。一体どちらが誠実なのだろう。2つの国に、たぶん、ホントは、大きな違いはないのかもしれない。

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というわけで、豪華メンツのゴミ山ツアーは、私にとって、クサイものにフタをしないインドの特性を気づかせてくれた貴重な体験となった。(なんのこっちゃ。)

とてもオープンな雰囲気のインドはゴミに関してもオープンらしい。(もちろん個人的にはゴミが落ちていない道のほうがいいし犬のうんちが落ちていない道のほうがいい。)

結局何が問題なのか


生命至上主義の医療に戸惑うように、人間至上主義の環境問題には、個人的にはどうしても抵抗があるが、でも、大枠として、個人的な動機がもちろん作用している。私はやっぱり空気はきれいな方がいいし、植物や動物ができれば元気な方がいい。それが考え方として正しいのかどうかは謎。

ただここで私がむしろ思いを馳せたいのは、日本とインドの捉え方の違いかもしれない。もちろん何事にもオープンなインドが全ての意味で良い、とは言えないと思うし、日本が絶対的に良い、とも言えないと思う。

日本に生まれ育った日本人として、これまで知らなかったやり方をインドで知った。

同じ大地であることには変わりはないはずなのに、日本はかっこつけすぎてはいないだろうか。本来見えるべきものが見えなくなっていやしないか。(いや道路がきれいなのはとてもいいんだけども。私だってきれいな道を歩きたいんだけども。)

うまくかけなくて、実はこの記事を書き始めてから3週間ももんもんとしていた。だけど一つ言えることは、このタイミングでインドに来れたことは、少なくとも私にとってはよい変化だったということ。

考え始めるためのきっかけをありがとう、太郎くん。


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