意味のないことに意味がある

どうも皆様ごきげんよう。
春は揚げ物。或いはあげぽよ。
嵩音ルイです。

つい最近、とある著名人の発言が話題になってましたね。
古文や漢文、三角関数は人生において無駄なので学ぶ意味がない、みたいな感じでしたかね。

わかる。
たしかに使わないんですよね。
別に僕たちは漢字だらけの文章をレ点やら何やらつけて読む必要もないし、メソポタミア時代の文献をそのまま読まなきゃいけない局面なんかない。
数学なんかもそうですよね。別段なくっても生きていける。

わかる。
でもそうじゃないじゃん?というのがなんとなく眺めてた感じの印象ですね。

だって別に、意味を求めて生きてるわけじゃないし?

使う使わないの是非はおいといて、人生において「必要か否か」で指針を決めるのってめちゃ危険なことだよなあと思うわけですよ。

だってそんなこと言い出したら、この僕のnoteって必要か?別に必要ではなくないか?っていう話で。
話す相手もいないので不特定多数に向けて文章にして投げてるだけ。

それに意味あるの?って言われたら、勿論ありませんよ。
この時間を使って、株でも買って日経平均株価の動き眺めてる方がおそらくマネタイズ的には有意義でしょう。

だが僕はこれを選ぶ。
なぜか。
やりたいからです。

まぁこういう自分からやりにいく趣味とかの話ではなく、授業という学生のリソースの使い方において無駄な勉強は意味ないのでは?ということが言いたいのだとは理解していますとも。ええ。

まぁたしかに、やらなくていいことってあるとは思います。
事実僕も苦手な単元とかありますし、体育なんかはもうトラウマものなのでやりたくもないんですが。

けど、やりたくないこととやりたいことをどうやって判別するかを考えた時。
一番理想的なフィルターは「やってみてどう思うか」なんですよね。

事実、僕がイラストではなく文章の道を選んだのも、両方やってみて文章の方が手応えがあったからです。

体育は嫌いなのでスポーツの道には間違っても進んでやるものかと決意しましたし、理科が楽しかったので結果的に工学系の道を選ぶに至ったのも、よく考えたらやってみた結果だよなと。

別に意味なんてないよ、漢文も古文も。数学も社会も別に必要はない。
織田信長が本能寺で自害したのがいつか知らなくても仕事はできるし、車の成り立ちや駆動原理がわからなくても運転は出来る。

でも、色々知ってた方が楽しい。
何よりも「選ばない」という選択が出来る。

ここに尽きるなと。

学校の国語の授業やって「えっなにこれオモロ!俺この道で食って行きてえ!」ってなって古文漢文専攻する人、絶対居るし。
そういうのもありだよね、と示してやるのが教育でしょう、と。

だからどんどんやろう、無駄なこと。
まずはこのnoteにいいねを押すとかどうです?意味ないように見えるかもしれませんが、画面の向こうにいる僕が喜びますよ。

……そういうのじゃない?
あ、はい。すみませんでした。

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