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19冊目:喜嶋先生の静かな世界/森博嗣

学問とはこれほどまでに深遠で、研究はこれほどまでに純粋。
~一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいたあの素敵な時間は、どこへ消えてしまったのだろう?

本日19冊目に紹介するのは森博嗣さんの「喜嶋先生の静かな世界」です。
この小説は、これまで紹介してきた小説とはやや趣向が異なり、作者の自伝的小説の色彩が濃い作品です。
というのも、この小説の作者である森博嗣さんは、元名古屋大学工学部の助教授という肩書を持つ生粋の理系研究者。
この作品では、森さん自身の大学生活、研究者生活を基にした物語が、静かな筆致で淡々と描かれています。
と言っても、おそらく完全なノンフィクションではなく、むしろほとんどは創作なんじゃないか?と思えますが…真相は分かりません。

そんな、この作品は、教科書に書いてあることを説明されるだけの高校や大学の授業に幻滅していた主人公が、大学4年のときに配属された貴嶋研究室での出会いによって、研究の面白さに目覚め、その後の人生を大きく変えられる様子を描いた物語です。

この作品のキーパーソンは何といっても喜嶋先生。
喜嶋先生は、多くの人にとっては、出世競争に取り残された風変わりな研究者というように映っています。
でも、実際は、喜嶋先生は誰よりも強く学問への好奇心を燃やし、誰よりも純粋に研究に没頭しているのです。
主人公は、研究以外の一切合財を捨て去り「静かな世界」の中だけで生き続ける喜嶋先生の生活に、とても強い尊敬と憧れを感じ、次第に心酔していきます。

自分は、おそらくこの喜嶋先生という人物は、実際のモデルは存在せず、作者の森先生の理想の研究者像を描いているのではないか、と思っています。
そして、この作品は貴嶋先生と主人公の姿を通して、森先生の考える「理想の研究者としての在り方」を提示しているのだと思います。
そんな、森先生の研究への想い、そして人生観が色濃く表れている、特に印象的な部分を一部引用します。

「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手掛かりは、自分の発想しかない。」

「僕にとっては、卒論で得られたささやかな発見よりも、次に見えてきた壁のほうがずっと魅力のあるものだった。大学院を受験しておいて良かったと心から思った。また登ることができる。まだ登ることができるのだ。」

「こんな生きた心地のしない稀有な世界だったけれど、僕はもう決めていた。もうしばらくここにいようと。いられるだけ、ここにいよう。自分の限界が知りたい。人間の限界を垣間見たい。そのためなら、それ以外のものが犠牲になってもいい、極端な話、自分の寿命が短くなってもいい、それだけの価値はあるのではないか。」

「学問には王道しかない。それは考えれば考えるほど、人間の美しい生き方を言い表していると思う。美しいというのは、そういう姿勢を示す言葉だ。考えるだけで涙が出るほど、身震いするほど、ただただ美しい。悲しいのでもなく、楽しいのでもなく、純粋に美しいのだと感じる。そんな道が王道なのだ。」

この小説の登場人物のように、誰からの称賛も求めることなく、ただひたすら自分の好きなことに真っ直ぐに打ち込む人生は、不埒な自分には到底歩めないのですが、だからこそ自分自身も喜嶋先生や主人公の姿に憧憬してしまいます。
心が疲れたときに、この「静かな世界」に触れれば、心が前向きになれそう、と感じました。

ただ、そんな奇跡の生活を失い、大人になってしまったラストの展開は物悲しく、少しホラーチックでもあります…。

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