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風の便り

 街に吹く風が身体の左側を撫でる。もしも右側を撫でる時は、決まって潮の匂いがする。彼は花壇を眺めながらそんなことを考え、手に持っていた袋の中に手を突っ込み、取り出した薄い焼き菓子をちびちびと食べた。指を擦りながら菓子の粉を地面に落としていると、足元から声がした。世の中には聞こえもしない声が聞こえることがあり、その声のせいで、意味もなくこういう花壇の植物を蹴散らしたりするような大人がいる。少年は何度もそんな大人たちを見た。そういう大人たちはしばらく暴れた後、唐突に空を見上げたきり、丸一日はそこを動かない。翌日になってからやっと警察が来て、彼を何処かへ連れて行く。大抵の場合、警察に連れて行かれた大人は戻って来ることがなかった。彼の父親もその中の一人だったし、母の兄もその中の一人だった。だとしたら、もしかすると自分も同じように、聞こえもしない声のために花を蹴散らすのだろうか。

「僕は何も知らないよ。」

 少年は声の方を見ないように、空を仰いで言った。空は雲ひとつない真っ青な天蓋で、時折鳥の群れが横切った。忙しく移動していく様は、遠い雨雲から逃げているようにも見えた。足元の声は言った。

「嘘を言え。」

 少年は辛抱して黙っていた。

「あぁ、今日は良い風だなあ。」

 声は少しばかり穏やかになって少年を盗み見た。同時に少年もまた、足元を盗み見た。声の主は、小さな野ねずみだった。彼のズボンからむき出しになっている足首を、野ねずみは身体の毛でくすぐった。少年は思わず笑いたくなったが、やはりまだ辛抱して黙っていた。

「ところでクッキーをくれよ。」

 野ねずみは小さな前足を少年のくるぶしに乗せて、鼻をひくひくさせた。すると細かいヒゲがまたしても彼の肌をくすぐり、少年は震える指先で袋の焼き菓子をつまんだ。それからわざと大きめに噛み砕き、たくさんの屑を落としておいた。

「甘い、甘い。」

 野ねずみはしばらくそうして嬉しそうに焼き菓子を頬張っていた。それですっかり機嫌が良くなったのか、最後はいかにもネズミらしく花壇を抜けて走り去っていった。野ねずみの通った後の草は所々押し倒されていた。あんな小さな生き物にもしっかりと「重さ」があるのだと少年は知った。土の上に無数に落ちた焼き菓子の欠片を、彼は足ですり潰した。それは単に食べカスを散らかしていることを咎められたくない一心だったが、ふとそこを通りかかった少女には、まるであのみっともない大人たちが花壇を蹴散らすのと同じに見えた。そのために少女は思わず声を上げ、少年もその声でハッと顔を上げた。しかしながら、少年の知らないことを彼女は知っていた。

「ああ、待って、平気よ。」
「どうして。」
「だって、貴方知らないの?」
「僕は何も知らないってば。」
「ここで誰かと同じ話をしたのね。」

 少年は目を泳がせていた。何処かでまだあの野ねずみが見ているのではないかと思った。

「嘘をつかなくたっていいわ。子供は平気なのよ。」
「え?」
「子供は聞こえたって連れて行かれやしないわ。」

 本当に知らなかったのね、と少女は笑うと、突然、花壇を覆う緑色の細長い草を手で引き千切りはじめた。しかし道行く大人は、それから警察さえも、何も気にすることなく二人の傍を通り過ぎて行く。

「ほらね。」

 彼女の得意満面な顔に僅かながら悔しさを覚え、彼はさっきまで野ねずみにくすぐられていた足首を掻きながら急いで言った。

「だったら、どうして右側の風は潮の匂いがするか、君は知ってる?」
「もちろん。海があるからよ。風が潮の匂いを運んでくるの。」
「海って…」
「そこにはね、気の触れた大人たちも、たくさんいるの。」

 少女は右側に吹き付ける風に顔を向け、海のある方へ指を指した。少年は途方に暮れた。どうして僕は何も気付かず、毎日こうして焼き菓子を頬張っていたのだろう、と。

「私にもクッキーをくれる?」

 差し出された手のひらに、彼はぎこちないままそっと焼き菓子を置いた。少女の満足そうな顔を見てから、少年は呟いた。

「…あの、今日は良い風だね。」
「私、潮風は嫌い。」

 彼女はそう言うと、あっという間にクッキーを平らげた。


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