見出し画像

目の中

目の中に人がいる、と彼女は訴えた。

それは普通に目の前にいる僕のことだろう、と答えると、彼女は強く否定した。なおも食い下がる僕と、絶対に認めようとしない彼女の押し問答が続くうち、静かにチャイムが鳴って僕たちは口を閉ざした。

「先生。」

授業が終わり、僕は手を挙げた。先生は僕の指先を見ていた。教室はたちまち人がいなくなって、僕と先生、それから彼女の三人だけになっている。先生は相変わらず僕の指先だけを見ながら、力なく返事をした。

「言ってみろ。」
「真崎さんの目の中に人がいるそうです。」
「誰がいるんだ、真崎。」

先生は僕の指先から視線を移して、真崎さんの肩を見た。

「名前は分かりません。」
「性別は?」
「男の人…、だと思います。」
「国籍は?」
「アジア系。」
「そいつをどうしたい?」
「目の中から消えてくれたら、助かります。」

先生は頷いて、持っていた出席簿に何かを神妙に記すと、もう一度僕(の指先)を確認してから教室を出ていった。先生が出席簿に何かを神妙に記す時は、これと言って新しいことは起きない。つまり、「生徒から話を聞いた」というマークか何かを書き込んで、先生の中では全てが解決したということだ。

僕と真崎さんはしばらく黒板を眺めながら、各々手荷物をまとめて学校を後にした。

翌朝、週の半ばだというのに全校集会が開かれるというので、全生徒は体育館に集まった。臨時集会が良い知らせをもたらすことはほとんどない。おめでたいことならば、まとめて月曜日に発表すればいいだけだ。

ザワザワとした喧騒が教頭先生の登場で静まり返ると、マイクを通して物々しく発表されたのは真崎さんのことだった。先生の出席簿のマークも意味を成すことがあるのだな、と僕は認識を改めた。

「他にも目の中に人がいる生徒は、直ちに担任の先生に言うようにしてください。」

もちろん、他に誰一人としてそんな生徒はいなかった。真崎さんは全校集会のあと、クラスメイトに囲まれてあれこれ聞かれていたが、昨日先生に説明したようなこと以上の情報は話そうとしないので、二時間目の終わり頃には
ほぼ全員が興味を失っていた。

「明日、大きな病院に行くんだって。」
「眼科?」
「精神科。」
「真崎さんは正常なのにね。」
「そうかな。」

大きい病院に行ったという真崎さんは、その日以来学校に来なくなった。

次の週の全校集会でわざわざ真崎さんの診断名が発表された。あまりにも長い名前だったので、僕も含め、誰もその名前を覚えられなかった。

僕はやがて学校を卒業した。

卒業アルバムに、真崎さんの写真は載らなかった。


それから何十年も経って、僕は引っ越して町を出ていた。

一度だけ、真崎さんにそっくりな人を見かけた。ここは日夜問わず道を歩けばうじゃうじゃと国籍問わず人間が闊歩しているような大都会だ。真崎さんに似た人物がいても不思議ではない。

「すみません。」

よく分からない色とりどりの瓶が並んだ店の前に、彼女は立っている。僕が声をかけると、彼女は持っていた携帯電話から目を離し、真っ直ぐに僕の目を見た。

「え?」
「…あの…」

僕が思わずしどろもどろになっている間に、後ろから彼女を呼ぶ声がした。振り向くと、日本人ではない、東南アジアかどこかの顔つきをした男が立っていた。

「ごめんなさい、連れが来たので…」

男と共に去ろうとする彼女を、僕は慌てて呼び止めた。男は至極迷惑そうに僕を見ていたが、この機会を逃すわけにはいかない。僕は真崎さんに付けられた怖ろしく長い病名を思い出そうとしながら必死にこう言った。

「その人、目の中から出てきたの?」

彼女は僕を一瞥してから、傍に立つ男にそっと耳打ちした。

「彼、異常なのね。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?