人型星的のこと
都会では人間の形をした「星」が見えるというので、僕は新幹線の駅から地下鉄を乗り継ぎ再び地上に出ると、地図よりも先に空を見上げた。
そこには故郷よりも星の少ない薄明るい空が広がっているだけだった。目を細めてみても、人間の形をした「星」など見当たらない。朝になれば見えるかもしれない、と僕は気を取り直して街へ足を向けた。
空に浮く人間の形をした小さな物体は、正式には「人型星的物質」というらしい。月よりも一回りほど小ぶりだが肉眼でも確認できる。
都会では何個か見ることができるのに、不思議なことに地方では目撃されたことがない。そのせいか、住む場所によってはいまだにそれを都市伝説のように思っている人もいる。実際、僕の祖父は都会に浮かぶ人型を信じていなかった。
ところで、人型をなんらかの道具用いて拡大し、観察することは法律で禁じられている。一度家のパソコンで法律のことを検索したが、何度読んでみても意味が分からない文章だった。何が駄目なのか、さっぱり分からないのに、とにかく「禁ずる」で文末は括られていた。
その法律の長ったらしい名前は、さすがに忘れてしまった。ちなみに写真や動画は拡大さえしなければ撮影しても罪に問われないというが、検索してもそれらしいものは引っ掛からなかった。暗黙の了解で誰もレンズを向けないのかもしれない。
翌朝、契約したアパートの電気ガス水道などの身の回りの設備を整え、宅急便で送っていた故郷からの荷物を受け取ると、気づけば昼を過ぎていた。母から来た段ボールにはインスタント麺がたくさん入っているはずだが、せっかくなのでアパートの近くにある食堂に行ってみることにする。
靴を履いてドアを開けると、空には当たり前のように人型が浮いていた。
今日は北西方向に4体も浮遊している。それらは白っぽい雲のような姿で、こちらを向く大の字のやつもいれば、地上と並行になって寝そべっているようなやつもいる。
僕は嬉しくなってしばらくじっとそれらを見上げていた。
「今日は多いねえ。」
声の方に振り向くと、今年73歳になるという大家のネネフさん(たしかに妙な名前の女性だ)が立っていた。
「多いとどうなるんですか?」
「どうもなりません。」
「例えば、雨が降るとかも?」
「どうもなりません。」
「…あの、これからよろしくお願いします。」
「はい、どうも。」
食堂は暗かった。窓の数は申し分ないはずなのに、日当たりのせいだろう。入り口を入ってすぐ左手の壁にぎっしりと貼られた手書きのメニューを凝視し、湯豆腐定食の文字を発見した僕はすぐにそれを注文した。僕は昔から湯豆腐という素朴な料理が好きなのだ。
平日の昼間だからか、店内には常連のような中高年の男性がカウンター席に座っているだけで、他に客はいない。料理を作る店長と男性がぽつぽつと会話している声だけが店内に散らばっていく。
僕は息を吐いた。明日からはバイトが始まる。ところで湯豆腐は予想よりも美味しかった。
「あなたの夢は叶いません。」
僕はギョッとして隣に立っている女性を見た。
何か分からないことがあれば彼女に聞いてください、と社員の人から言われ、一通りレジ周りの作業を教わってからしばらく経った頃だった。カウンターの向こうで男は軽く会釈をして店を出て行った。
ここはアパートから少し離れた隣町にあるコンビニだ。そして僕はそのアルバイト店員になっている。
「何でしょうか?」
僕がギョッとした顔でいつまでも彼女を見つめていたので、織頭さん(彼女の名前だ)は怪訝そうにこちらを向いた。
「いえ、あぁ、その、びっくりして。」
「あの、答えたくなかったらいいんですけど、」
「えっなんでしょうか。」
「どうして都会に来たんですか?」
織頭さんはてきぱきと周辺を掃除しながら言った。僕は適当な答えが思い浮かばず、「浮いてる人間を見るためです」とヘラヘラ笑った。彼女は特にこれといった表情もなく、鶏肉を3つ揚げながら「そうですか」と返事をした。
「僕、出身地言いましたっけ。」
退勤まで残り1分。
「方言、出てないつもりでしたけど。」
織頭さんは真っ直ぐ時計を見ていた。僕もつられて秒針を眺めた。
「言葉の高低差でなんとなく。」
「イントネーションてやつですか。」
「高低差です。」
「そうかあ。」
「退勤の時間ですよ。お疲れ様でした。」
「あ、お疲れ様です。」
コンビニの外は夜になっていた。初日から職場で買い物をするのは気が引けた。アパートの近くの食堂もとっくに閉まっているだろうし、別の店で惣菜でも買って、あとは母からの荷物を漁ってみよう。
何となしに見上げた空に浮かぶ月の近く。なんとなくモヤモヤと人型が浮いている気がして、僕はポケットから携帯電話を取り出し、パシャ、と無機質な音を立てて写真を撮った。
写真を確認しても白いモヤがなんとなく写っているだけで、何も知らない人が見たら間違いなくただの雲だと言うだろう。
僕はもう一度ゆっくりと人型にカメラを向けた。そして画面に人差し指と親指を乗せて、ほんの少しだけ拡大した。
"人型をなんらかの道具用いて拡大し、観察することは法律で禁じられている。"
まさかそれをうっかり忘れてしまったわけではない。単純に言えば、魔が差したのだ。誰もいない夜道で携帯電話の画面を拡大したところで一体何が悪い?
僕は決意した。織頭さんとの会話が弾まなかった腹いせも、少しだけあった。
画面には、わずかに大きくなった人の形をした白いモヤが映っている。それを慎重に少しずつ拡大していくのだが、目を凝らしてみても、それは拍子抜けするほどにどこまでも白い。ところで、どこかに ”顔” はないのだろうか?
「こんばんは。」
僕のすぐ後ろで声がした。振り返ってみると、大家のネネフさんだった。僕はごく平静を装いながら、携帯電話を袖で意味もなく擦った。
「こんばんは、散歩ですか?」
時刻は午後10時だが、特に他に提案できそうな行動がなかった。ネネフさんは曖昧に笑いながら、空を見上げた。僕はそんなネネフさんを目の前にして、背中に冷たい汗をかいていた。
ふと息を吸って、僕は先手を打つことにした。
「昨今の携帯電話の撮影機能はもはやカメラと変わらないなんて言いますけど、電話は電話、カメラはカメラ。いくら電話が歩み寄ったところで、それはカメラになり得ないです。それに、カメラが電話になろうとしたことがありましたか? ないですよね。それが全てです。」
「星がきれいねえ。」
ネネフさんは皺だらけの瞼の奥で、僕に笑いかけた。
「心配しなくたって大丈夫よ。若い人はいつだってそうなんだから。」
ネネフさんと話したのは、それが最後になった。その夜元気に散歩していたであろうネネフさんは、3日後にはアパートの階段から足を踏み外して
帰らぬ人となってしまったのだ。アパートの管理はどこかの業者が引き継ぐとか何とかいうお知らせがあった。
僕は相変わらずバイトに行っては部屋に帰って寝るだけの生活をしていた。
人型の多い日は、まだ思わず立ち止まって空を見てしまう日もあるが、日に日に僕の中で都会の空に浮かぶそれらはだんだんと存在感が薄れていった。都会に住む人たちが、全く人型に対して興味を持たないのは、こういう訳なのだろう。
「あなたの夢は叶いません。」
織頭さんにそう言われると、浅黒い若い男は悲しそうな顔で去っていく。僕は凍った肉まんを蒸し器にセットし終わると、いよいよ彼女に尋ねてみることにした。
「それって、一体何を言っているんですか?」
「WE CAN NOT DO THAT.」
「英語?」
「あの人にはあれが一番いいんです。分かるんですよ、英語より。」
織頭さんがそれっきり黙り込んでしまったので、僕は色々と考えた末、もう一度口を開いた。
「どうして人の形をしたあれを拡大しちゃいけないんでしょうか。僕、田舎から出てきたばっかりなので、いまいち意味がよく分からなくて。例えば、間違えて携帯の操作を誤ってしまったとしても、やっぱり罪になるんでしょうか。それって、誰かが監視しているんでしょうか、24時間。」
フライヤーがピーピーと鳴って、僕は揚げたてのチキンを眺めた。古い油の臭いが充満している。織頭さんは僕を、憐れみに満ちた表情で見ていた。
僕はつい少し前に、この都会で彼女のような彼女がほしいと思っていたけれど、もうこれっぽっちの望みもないだろう。
「あなたの夢は叶いません。」
彼女はレジカウンターの下にあるボタンをそっと押していた。僕はそれを見ていたが、止めようとは思わなかった。そのうちに警察官が来て、僕の身柄は確保されたのだった。
逮捕の理由は明確だった。あの夜、「 ”人型星的物質” を携帯電話のカメラ機能でズームしたから」だ。弁護の余地などなく、僕はすぐに長々とした書類の一枚一枚に署名を書くことを強制され、僕は空に上げられることになった。
「君の場合、そんなに拡大しなかったでしょう。」
白髪混じりの男性が、『人型星的物質拡大罪審議委員会』という名刺を出すなり僕に言う。(ちなみに「拡大罪」、というのはかなり簡易的な表現だ。本当はもっと長ったらしい。)
素直に頷こうかどうか迷ったが、男性は勝手に言葉を続けた。
「まあ、ですから、だいたい2年ってところですね。」
「え? 戻ってこれるんですか?」
「もちろんです。どのみち、上にいくと記憶は失われますから、何年向こうにいようがあまり関係ありませんけどね。それと、地上に戻った時は、一過性の記憶障害を発症した患者として新しい人生を歩んでもらいます。」
「僕としての人生はここで終わりなんですね。」
「飲み込みが早くて助かります。」
「…空にいる人たちは、全員が罪人というわけですか。」
「いいえ。そうとも限りません。拡大罪が制定されたのはここ20年の話ですよ。それより前にあれらは確かに空にいました。」
「じゃあ…」
「時間です、私はここで失礼しますね。」
男性は立ち上がって部屋からあっけなく出ていった。つまり、あの人型が一体何なのかは分からないままだった。だからと言って僕がこれ以上何かできるはずもない。
廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてくる。僕は少しだけ椅子に背中を預けて、小さな窓の奥から空を見た。
ちなみにあの時、織頭さんに余計なことを言わなければ僕は助かったのではないか、と思う人がいるかもしれない。しかし実際は大家のネネフさんの遺書に僕のことが書かれていたのだ。それを見た遺族からの通報が先で、織頭さんはただの偶然が先走ったに過ぎない。
ネネフさんは夜道で僕が拡大の罪を犯していたことをしっかり理解していたし、見過ごさなかった。それでも僕はあのアパートを気に入っているので、また住めたらいいなと思っている。
湯豆腐定食も、実のところまだ2回しか食べていないのだ。ああ、再来年まで、あの店はあるだろうか?
空の奥で、誰かが手を振っていた。