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休日の午後

 草むらの虚の中へ潜り込み、丸っきりその姿を消した小鳥がまだ遠くで囀っている。夢にも恋にも破れ、それでもまだ何故生きるかなど分からないまま、彼は椅子に座っている。窓枠が残酷にもいつもと同じ風景を映し続ける中、玄関の呼び鈴はしつこく鳴り散らかしたあと突然に沈黙した。彼は何かをする予定であった。しかしながらそれが何であったか思い出せず、今はただ椅子の上で茫然と座っている。昨夜電話をくれた彼の友人は、「人間は生まれてこないことが最善だ」と誰かの格言じみたものを引用し、彼を慰めてくれた。あれは友人なりの、人生に対する前向きな励まし方なのである。
彼は曖昧に半笑ってから受話器を置いた。明日になったら馴染みの喫茶店にカフェオレを飲みに行こうと決意した。そして翌日の朝。彼はただ椅子に座っている。あの小鳥さえも口を閉ざしてしまった頃、彼の中の天使が語りかけた。

「どうですか。」
「どう、とは?」
「今この瞬間です。」
「見ての通りです。」
「なるほど。」
「悪魔は留守ですか。」
「今日みたいな日には、ふさわしくないと思いましてね。」
「何故です。」
「それは貴方自身で分かっているでしょう。」

 彼は考えた。今日みたいな日に悪魔が訪ねてくるとどうなるか。草むらに消えた小鳥をひねったり、傲慢な面接官を蹴り上げたり、去っていった彼女を刺したり。おそらく天使のはそのようなことが起きると考えているのだろう。彼もそれを全て否定できるとは思えなかった。だが、最も現実的に起こりうることは、座っている椅子を窓に叩きつけること、それ以上でもそれ以下でもないだろうと彼は思う。しかもそれは、わざわざ悪魔と協力しなくても実行できるに違いない。ふと彼は椅子から立ち上がろうとしたが、足元に上手く力が入らず、またどんよりと窓を見つめた。

「五番街は雨ですよ。じきに、こちらにも雨が来るでしょう。」
「ご丁寧にありがとう。」

 それきり天使はどこかへ消えた。天使の言う通り、それから五分もしないうちに雨が降りだした。傘のない子どもたちが金切り声を上げながら走っていく。すると、ベシャ、と衝突音がした。子どもたちの一人が濡れた地面にうつ伏せている。石畳に足を滑らせて転んだのだろう。仲間たちには置いていかれたが、泣きわめくこともなくその子どもはゆっくりと顔を上げた。

「連れて行ってやろうか。」

 確かにその子どもは低い声で彼にそう告げた。

「何処へ。」

 椅子の軋む音。まさか彼は希望を持ったわけでもないのに、身体は軽々と動いた。ただその場所が一体何処なのか聞きたかっただけなのだが、悪魔は彼を見逃さない。窓枠から乗り出した彼の身体がゆっくり落下し、今しがた子どもがいた所に被さった。

「喫茶店に行くって言っていたじゃないか。」
「ああ、そうだな。」

 背中に打ち付ける雨が不快に服を濡らしていく。彼は子どもの足が遠ざかっていくのを見た。果たして喫茶店は、服の裾から雫を垂れ流したままの男にカフェオレを提供してくれるだろうか。彼はしばらくしてから立ち上がり、ふらふらと道を歩いた。やがて雨は止み、五番街は日差しに照らされた。小鳥が姿を表し、彼の前で愛らしく鳴いた。日差しを浴びているうち、彼の服はすっかり乾いていた。彼は、それで少しだけ気分が良くなった。


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