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ミラー通り少女2丁目

 息を止めながら鏡の中に入ると、別の鏡から出てくることができる。これは特別な力とかではなくて、ある日ふとやれるようになった。

 私とリナちゃんはよく学校帰りの地下鉄で一緒にそれをやった。地上出口のすぐそばにある鏡の前で「せーの!」と鏡に飛び込めば、長い地下通路を歩かなくても改札の近くまで一瞬で移動できる。

「めっちゃ上手くなったね。」

 先にコツを掴んでいたリナちゃんにアドバイスをもらったおかげで、私は出てくる鏡を選べるようになっていた。

 私たちは同じ方向の電車に乗り、私より二駅手前でリナちゃんが降りる。

「またね。」

 リナちゃんと私は普段一緒にいる友達が全然違うので、私たちが時々一緒に帰って、しかも鏡を通り抜けているなんて誰も予想もしなかったと思う。
 私はクラスで目立たない地味なグループで、リナちゃんはスカートが短くて笑い声の大きい派手なグループにいた。もちろん、男子とも仲が良さそうだった。
 そんな私たちだけど、帰り道は学校の話やテレビの話でよく盛り上がった。

「昨日のBUZZミュージック見た?」
「何それ?」
「夜の11時くらいにやってるやつ。」
「私、その時間は寝てるなぁ。」

 リナちゃんは、番組を知らない私のためにどんな歌が流れたかを教えてくれた。私にとっては知らない歌手ばかりだったけど、楽しそうに話すリナちゃんを見ていたら、来週はお母さんにお願いして夜更かししよう、と思った。

 鏡に入ると、外にいる時よりもかなり息苦しくなって、身体はなにかフヨフヨしたものに圧迫される感じがする。だからあんまり長い時間鏡の中にいるのは危険なのだと思う。
 それはリナちゃんも同じ気持ちだったらしく、私たちは出る時の鏡を遠くに意識することはなかった。

 でも一度だけ興味本位で、学校の近くのコンビニへ鏡を使って出てみよう、という話になった。だけど、いざ階段の踊り場にある鏡の前に立ってみると私はそれ以上進めなくなってしまった。

「怖いの?」

 リナちゃんはそんな私を見てニヤニヤしていた。でも、いつもならさっさと私を置いていくのに、リナちゃんも動こうとしなかったから、やっぱり嫌になったんだろう。私はそれに気づいてしまったことを隠しながら、素直に頷いた。

 それでその日は解散になった。

 一週間経って、私は無事にBUZZミュージックを見ることができた。ピカピカ光るスタジオと、初めて聞く音楽。お母さんとの約束で、見終わったあとはすぐに布団に入ったけれど、瞼の裏でいろんな色の照明がぐるぐるして、耳の奥にはかっこいい歌手の人たちの歌が騒がしく鳴って、しばらく眠れなかった。だけど楽しかった。

 金曜日の朝、リナちゃんは学校を休んでいた。しかもその日だけじゃなく、リナちゃんはその後も、冬休みになっても、新年になっても、学校を休んでいた。クラスのみんなは、リナちゃんは学校を辞めたんだ、と噂した。
 私はどうしてもそれを信じられなくて、教室の一番後ろの席にいる登美島くんに声をかけた。これまで私は登美島くんと話したことは一回もない。何故なら登美島くんは学校にはたまにしか来ないし、目つきも怖いし、誰とも喋らないからだ。
 それでも、リナちゃんは登美島くんは小学校時代からの友達で、今でもたまに遊びに行くと前に聞いたことがあった。

「ねえ。」
「僕に何かご用でしょうか。」
「リナちゃんがどうしてるか知らない?」
「……。」

 登美島くんがじろり、と教室の中を見回した。私たちを見つめていたクラスメイトたちが、気まずそうに顔を背けた。私は登美島くんの前から逃げ出したくなったけど、もしリナちゃんのことを知っているなら、絶対に聞いておかないといけない、と思い、ぐっとお腹に力を入れた。

「 ”ショーシャンクピープル” って知ってますか。」
「えっ?」
「知りませんか、”ショーシャンクピープル”、あるいはSSP。」

 登美島くんはどこか遠くの方を見ながら早口でそう言った。私には一瞬、何がなんだか分からなかったけれど、突然頭の中に音楽が閃いた。ガリガリするようなギターの音と、叫んだり、声が小さくなったりする男の人。

  やっちまえ やっちまう やっちまえ
  のんだ しんだ のんだ しんだ
  おきあがる おきあがる ひかり そらに
  やれなかった やれなかった やれないや
  それでも まあ いいさ まあ いいさ 

(Shawshank People / 『あゝ、その研ぎ澄ましたアレ』

「あの変な歌だ!」
「BUZZミュージックではライブバージョンでしたね。テレビ番組にしてはいいライブでした。」
「へえ…そうなんだ…?」
「薪由さんはそのギターの人と付き合うとかで、去年の11月22日に荷物を持って家を出ました。」

(まきゆい、というのはリナちゃんの苗字だ。)

「う、うそ?!」
「本当です。叔父さんの知り合いの知り合いだから紹介してもらったとかいう話です。」
「でもあの人たち、大人だよ?」
「ええ、まあ。」
「…怖くないのかな、リナちゃん。」
「憧れのSSPですし、幸せだと思いますけど。」

 その一週間後、薪由さんは学校を辞めました、と先生が朝の会で言った。私は帰り道、いつもリナちゃんと通り抜けていた地下鉄の駅の鏡を見た。リナちゃんを思い浮かべながら通ってみたけれど、いつものように改札の近くに出た。

 なんだか、泣きたい気持ちになった。

 ショーシャンクピープルは4月に「ミラー通り少女2丁目」というシングルを出して解散した。メジャーデビューしてから1年ほどで解散してしまったので、ファンの人たちは嘆き悲しんでいた。
 登美島くんにそのことを話してみたら、「また一つ、この国の良いバンドが減りましたね。」と言っていた。

 中学3年生になって、私はもう鏡を通り抜けるのをやめていた。私はあれを一緒にやる仲間が欲しかったし、それにはリナちゃんが一番良かったんだと思う。

 あっと言う間に一年が過ぎ、中学校の卒業式が終わって(登美島くんは来なかった)、私は最後に鏡を抜けることにした。階段の踊り場にある鏡の前、学校の外まで抜けようとしてできなかったあの鏡。遠くで誰かの話し声がする。すすり泣く声と、笑う声。鏡に映る私は、どんな表情もしていない。
 私はダメ元で心にリナちゃんを浮かべた。リナちゃんの近くに鏡があれば、と思った。

「あ。」

 息を深く吸う。呼吸ができた。ゆっくり目を開けてみると、そこには、知らないお姉さんがいる…、と勘違いするほど、私の知るリナちゃんとは違ったリナちゃんがいた。

「コンビニ…?」

 私が立っているのは、ちょうどコンビニの飲み物の棚、の裏側だった。リナちゃんは制服を着て、パイプ椅子に座っている。

「なんだ、こんな近くにいたんだ。」
「違うよ。」
「え?」
「学校の近くじゃないよ、ここ。」

 それからリナちゃんは私の住む県よりももっと遠くにある場所の名前をちょっと笑いながら呟いた。

「鏡通ってきたの? めっちゃすごいじゃん。」
「…あはは…、あの、今日学校の卒業式だったからね、最後にやってみようと思って…」
「私、もうできなくなっちゃった。」
「分かる。私もこれで最後だよ。」
「じゃあ、どうやって帰んの?」
「そっか。…うーん、どうしよ…」

 リナちゃんは明るい茶色に染めた髪の毛を揺らして、椅子から立ち上がり、ロッカーを開けるとそのまま私に何かを手渡してきた。

「え?」
「新幹線、乗ったら早いよ。」
「ダメだよ、そんな…」
「バイトしてるし大丈夫。あ、特別に働かせてもらってるし、私からもらったっていうのは内緒ね。」

 私が呆然としてると、店の中からピンポーン、と音がした。

「あ、行かなきゃ。そこ、裏口から出れるし。」
「ちょっと、リナちゃん、あの!」
「じゃあね。」

 リナちゃんは少しだけ寂しそうに笑った。私はぽかんとしたまま取り残されて、だけどこのまま立っているわけにもいかず、言われた通りに裏口からコンビニを出た。
 表通りに出てみると、そこは全く見たことのない場所だった。一瞬リナちゃんを振り返ると、レジに立ったまま何処かを小さく指さした。

「え・き」

 口の形がそう見えた気がして、私は頷いた。それっきり、リナちゃんとは会っていない。



 あの頃の私たちには、携帯電話もパソコンもなかった。大人になってから私はふと、「鏡抜け」のことを調べてみた。ほとんど何も引っかかることはなかったけど、誰かが昔放置したままのブログに、こんな一文が書いてあった。

”鏡を通り抜けれられない少女がいないのと同じように、鏡を通り抜けられる大人はいない。”

 著者はショーシャンクピープルの「ミラー通り少女2丁目」に触発されてそんなことを書いたようだけど、肝心の「ミラー通り少女2丁目」はラストシングルだったにも関わらず、ほとんど世間に出回っていないらしい。

「ショーシャンクピープル? 知ってるよ。コアなバンドだったよね。好きだったの?」
「いえ、一回だけ、テレビで…」
「ふーん。ギターやってた人、ずっと行方不明って噂だよな。」
「えっ、そうなんですか?!」
「あれ? 知らない? 行方不明になったから解散したんだよ。基本、ギターが作曲してたし。」

 私は職場の先輩が話し続けるのをよそに、頭の中で想像してみた。少女だったリナちゃん、SSPのギターの大人。好き合った二人は手を繋いで鏡を通り抜けてみる。リナちゃんは鏡を抜けた、だけど大人は……。

 仕事場からの帰り道。さっきまでいなかった制服姿の少女が、少しよろめきながら改札までの列に加わった。それから遅れて、もう一人。二人は顔を見合わせて笑っている。
 私は、電車に乗るまでの数分間、いつまでも、いつまでもその二人の後ろ姿を見つめていた。

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