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井戸の底

 相棒の黒猫が井戸の縁に座ってじっとその奥を見つめているので、与四郎は黒猫を脅かさないようにそろそろと近付いて、同じように真っ暗な穴の中を覗き込んでみた。ひんやりとしたそよ風が不思議に頬を撫でていくほか、彼の目に何か映るものはない。

「なぁんだ、お前も涼んでいただけかい。」

 与四郎がそう言って黒猫を撫でると、猫はふむ、と鼻を鳴らした。それから二人はしばらくそうして井戸の傍で過ごしていたが、与四郎を呼ぶ母の声で黒猫はひょいっと姿を消した。猫嫌いの母の声を覚えているのだろう。おかげで黒猫はいつも与四郎の前にしか出てこない。

 次の朝。黒猫の姿はないが、与四郎は無性に気になって再び井戸の底を覗いていた。どうやら今日は、歌声が聞こえてくる。一度家の周りを確かめてみたが、歌を歌うような者は誰もいない。

「おとう、何か歌った?」

 煙管の煙がゆらゆらと揺れていた。父は背を向けて寝転んだまま返事もしない。やがて灰を落とす乱暴な鋭い音が続き、またすぐに細い煙が立ち上る。

「おとう、」
「うるせえや。あっちいけ。」
「……。」

 与四郎は意味もなく、ずっ、と鼻をすすり、踵を返して庭の方へ走った。
父のことは嫌いじゃない。だけど、あとほんの少しだけでもこっちを向いてくれたら、とは思う。
 井戸の縁には、また相棒の黒猫が座っていた。三角形の耳が神経質そうに音を拾って動いている。あの歌声は、やはり井戸の底から聞こえてくるのだ。

「誰?」

 与四郎の声で歌が止んだ。

「千代。」

 少女は自らをそう名乗った。与四郎は呆気に取られながらも、どうしてか恐ろしいとは思わず、その日から毎日、千代が歌うのを聞くようになった。三日目の朝、その歌は何というのか、と問うてみたが、答えはなかった。
どうやら千代は喋るよりも歌う方が得意のようだ。

 四日目の夜は大雨が降った。母は家の中を走り回って雨漏りがしないかと心を砕いていた。父はいつものように寝そべっていた。与四郎は、千代が心細くはないかと思って、庭の方ばかり眺めていた。

「いいねえ、おまえたちはそうやって呆けてばかりでさ。」
「おい、腹が空いたぞ。」
「いっぺんくらい、自分で握り飯でもこさえたらどうなんだい。」
「俺ぁもう、うまく指が動かねぇよ。」
「おとうは手が悪いの?」
「手だけなもんかい、頭もだよ。」
「へっ。」

 翌朝になると大雨はすっかり上がり、青々とした空ばかり広がっている。
与四郎は濡れた土を踏みながら井戸へ近寄った。歌声は聞こえなかった。

「千代。」

 与四郎の声はふわふわと頼りなく漂い、やがて井戸の底へ消えていった。

「何してんだい。」
「あっ。」

 母は慣れた手つきで井戸水を汲んだ。しかし桶に溜まった水を見て顔をしかめた。

「あら、濁ってるじゃないか。嫌だねえ。」
「おかあ、見せて。」

 茶色い水がゆらりと揺れた。千代は、そこにはいなかった。それ以来、あの歌が聞こえることもなくなった。

 数日も経って、井戸の水はまたいつものように透き通り、心地よく喉を潤した。与四郎は相棒の黒猫にも水を振る舞ってやった。桃色の舌が器用に水を受け取っては、次々と口の中へ入っていく。

「美味しいかい。」

 相棒の黒猫は、口の周りを舐め終えて、ふと与四郎の顔をじっと見つめた。それから、ふむ、と鼻を鳴らし、

「ありがとう。」

と声を出した。それは間違いなく千代の言葉だった。黒猫は垣根の隙間から外へ出ると、もう帰ってこなかった。




「妙な話だね。」

 与四郎の傍で寝転んでいた女房は言った。彼は煙管の先を灰吹に叩きつけてから、しまった、という顔をした。次からは間に空いた手のひらを入れて、あの乱暴な音がしないようにと気を張った。

「千代ってのは、誰だったんだろうね。」
「…もしかすると、姉さまだったのかもしれないよ。」
「へぇ。」
「母さまが一度だけ、井戸の前で泣いていたことがある。親父の姪子が振袖を着飾って遊びにきた、その夜だ。母さまはあの日、産まれていたはずの千代姉さまを、想像したんじゃないかなあ。」

 女房はくすりと笑った。与四郎は、静かに煙管を置いた。遠くで猫の鳴き声がして、ひんやりとした夜のそよ風が、灯していたろうそくの火をいたずらに揺らしていった。


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