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廣瀬俊朗とラグビー Vol.1

RUGGERSオリジナルコラム
「廣瀬俊朗とラグビー」
第1章 ラグビーとの出会い~高校生活

筆:廣瀬俊朗
1981年生まれ、大阪府吹田市出身
元ラグビー日本代表キャプテン
株式会社HiRAKU 代表取締役
NPO法人 Doooooooo 理事

1.ラグビーとの出会い
 僕は5歳からラグビーを始めた。キッカケは、親に無理やり連れていかれたからである。通常、ラグビースクールは4月からスタートする。僕自身は10月ごろに入ったので、途中からの参加ということもあり、出来上がっているコミュニティに入っていくことに抵抗感があった。また、日曜の朝はアニメを見たかったので、その時間にあえて、好きでもないラグビーをしにいくことは乗り気では無かった。そういう意味では、僕のラグビーとの出会いはあまり良いものとは言えない。
 しかし、僕が通った吹田ラグビースクールは当時、「enjoy rugby」 をテーマにしており、勝ち負けより楽しくやろう!という空気があったため、ラグビーボールを使った遊びを通して友達ができたり、寒い日の練習後に皆で豚汁を食べたり、ラグビー以外の要素から徐々に嫌ではなくなっていき、そこから毎週練習に行くことが苦ではなくなった。皆で1年に1回行く泊まりの合宿なども楽しみになり、ラグビーの練習がない日は、家族と公園にキックの練習をしに行くほどになっていった。
 練習や試合で、コーチにこっぴどく怒られた記憶もない。楽しく諭してくれる大人たちであった。僕としては、親、学校、それ以外の大人たちと小さい頃から触れ合えたことは、価値観が一つに縛られず、色々な考えを学ぶ上で良かったと思っている。
 ラグビーが上手だったかと言われると小さい時はそんな記憶はあまりない。チーム自体はそこまで強くなかったし、試合前はとても緊張して、怖かったという思い出もある。ただ、父親が陸上の短距離をやっていたこともあり、運動神経は良く、高学年ぐらいから少しずつ上手になっていった。また、何よりもラグビーを観るのが好きだった。
 当時、神戸製鋼が全盛期で憧れの存在であった。冬は、ファイブ・ネーションズ(注)が夜中にやっていたので、録画して、よく見ていた。特に、ギャビン・ヘイスティングス、ジェレミー・ガスコットなどが好きで熱心に応援していたが、今思い出すととても懐かしい。当時を振り返ると、自主練をやったり、グラウンド以外でもラグビーの試合を見て研究したりと熱心にやっていたなと思う。
 子供の頃に良い習慣をつけることができたので、色々と自分で考えたり、研究したり、練習することは苦ではなくて、むしろ楽しいこととして身についた。それだけでなく、小さい時に好きなものに出会えて、幸せだったなと改めて思う。また、平日はサッカー、バスケなど色々なスポーツをやったことも良かった。身体能力向上やスペース感覚が自然と身についていった。
(注)ファイブ・ネーションズ…年1回開催される、ヨーロッパの強豪国が参加する国際ラグビー大会(現在のシックス・ネーションズ)。当時はイタリアが加入しておらず、イングランド・スコットランド・アイルランド・ウェールズの5ヶ国で行われていた。

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(小学生時代の筆者)

2.中学でのラグビー生活
 中学でラグビー部に入部し、週末のラグビースクールに加え、平日もラグビーをするようになった。ラグビー部には、いわゆるヤンキーと言われる友達も入ってきた。ちょっと悪いけど、体も張るし、オモロイ仲間。学校をたまにサボって、授業に出てこないこともあった。一方で、試合中に、仲間が少し汚いプレーをされると一番に駆けつけて、守ってくれた。彼らは裏表がなく、はっきりしていて気持ちが良く、今まで出会わなかった友達ができた。また、対外試合で大阪市の学校と戦うことがあった。吹田市と大阪市は隣とはいえかなりラグビー部の雰囲気が異なり、その時は、コテコテの大阪の選手たちが怖かった。試合中に、「対面(トイメン)集中」とか「やったれー!!」とか、とにかくすごい形相で言われたり、反則スレスレのプレーを仕掛けたりしてくる。選手だけでなく、先生もサングラスをかけ、物凄い雰囲気が感じられ、先生に対しても怖さがあった(笑)。中学3年で大阪の選抜チームに選ばれた時は、怖いと思っていた敵が仲間になり、妙に心強かった。
 先日、中学時代の大阪の仲間と久々に飲んだが、当時の様子を皆で振り返って、懐かしかった。ルーツを体感できて、これからまた頑張ろうと改めて思う機会になった。

3.高校ラグビーと海外遠征
 高校は地元で一番の進学校で、祖父がOBでもあった北野高校へ進学した。自主性を重んじる学校で、ホームルームもなかった。休憩時間の終わりには、先生が廊下で待っていて、チャイムと同時に入ってきてすぐに授業が始まるため、予め授業の準備をしておく必要があり、準備の大切さを学ぶことが出来た。
 ラグビー部顧問の太田始先生は、レフリーで有名だった人。レフリーから見たらどういったプレーをして欲しいのか、レフリーとどうコミュニケーションをとったら良いのか、あとは、ゲームの流れを読むことの大切さなど、ラグビーを違う観点から教えてくれた。また、僕たちの考えを尊重してくれて、決して強くはなかったが、自分たちで考えて実行していく過程は、苦しくも充実した時間を過ごすことができた。
 僕らの代は府大会ベスト32で敗退し、ラグビー部を引退してから、当時大阪工大高の野上友一先生に誘っていただき、大阪工大高の練習に参加させてもらった。野上先生は熱く、厳しく接してくれた。一人での武者修行はプレーだけでなくメンタルも鍛えられた。
 高校生活の終わりには、野上先生が監督を務める高校日本代表に選ばれ、ヨーロッパ遠征に参加した。最初の相手は、ウェールズ。相手がどれほど強いのか、どんな雰囲気で試合をするのか、全くわからないまま試合は始まった。こちらが準備してきた展開プレーや、早いテンポでのアタック、鋭いタックルは十分に通用した。一方で、彼らは一気にトライを取り切る力を持っている。そんなに器用ではなかったけど、こっちが勝ちきれるところまではいかずに、惜敗した。
 2試合目の相手も同じくウェールズ選抜で、こちらも惜敗であった。
 3試合目からはフランスに移動し、最初にクラブチームと戦った。この時ようやく初勝利を挙げ、少し安堵した。最終戦は、U19のフランス代表と試合。このチームは飛び抜けて強かった。フォワードのフィジカル、バックスの華麗なアタック。こちらとはレベルの差がかなりあって、大敗した。このフランスのチームは、その年代で世界一になった。自分たちとしては、そのことを聞いて、少し安堵した。最終戦を終えて、帰国。もう三月の終わりになっていて、すぐに東京に行く準備に取り掛かった。
 遠征では、なかなか結果が出なかったが、フランス語でのスピーチや海外の同世代との国を背負った真剣勝負はとても充実していて、楽しく、貴重な経験となった。

北野全員

(北野高校時代の筆者)

~第2章に続く~

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