何故、表現規制派と議論してはいけないのか―その理由
はじめまして。るーでる@柏葉と申します。今日より、こちらでも意見を表明していきたいと思っております。
私は表現規制反対派として、20年以上、活動して参りました。逐一、事例を挙げることは身バレ防止のためにしませんが、ネットのみならず、リアルでも暇を見ては表現規制反対派として可能な限り動いてきました。
今回、私には皆様に是非とも伝えたいことがあります。それはタイトルにもしました”表現規制派と議論してはいけない”ということです。
といっても、誤解なさらないで頂きたい。私は、「表現規制派の主張を無視しろ」と申し上げたいのではありません。より正確に表現するならば、「表現規制派との直接の議論は避けて、その間違いを人身攻撃に堕することなく淡々と指摘し続けるべきだ」ということです。
以下、その理由を説明していきます。
議論が成立し得ない
互いに自身の意見の根拠となるものを提示し、かつ論理を組み立てていき、そのテーマについて最良と思われる結論を導出していく手順こそが議論です。
しかし、次のような意見のやりとりは議論と呼べるでしょうか?
A 「私はこのテーマについてはXだと考える。その論拠となるのはYであり、これはこのテーマについての妥当な見解がXだと言うことを支持している」
B 「私はこのテーマについてHだと考える。論拠? そんなものはない。私がHだと思うからそうなのだ」
如何でしょうか? 果たしてこれは議論と呼べるものになっているでしょうか?
勿論、なっていません。AはXだとするための論拠Yを提示しましたが、Bは論拠の提示を怠っています。
表現規制反対派と表現規制派が意見を表明し合うとき、表現規制反対派は、多くの論拠を挙げることができます。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/jcom.12129
他にもありますが、キリがないので、とりあえずはこの三つを挙げておきましょう。(一つ目と二つ目は性科学者ミルトン・ダイアモンドによる「ポルノの増加は性犯罪の増加をひきおこさない」という総説論文と「日本におけるポルノの増加は性犯罪の増加に繋がっていない」という論文、三つ目は「ゲームは青少年の暴力をひきおこすものではない」というアメリカにおける調査結果)
対して、表現規制派は、論拠を挙げてくること自体が希です。挙げてきても規制の論拠としては弱いものか的外れなものであることがほとんど。
つまり、表現規制反対派が論拠を提示する一方で、表現規制派は論拠を提示することを怠っているわけです。
また、議論においては、デマを言わないこと、間違いがあれば訂正することといった知的誠実さも重要……なのですが……
このように間違いだと指摘されても開き直る始末。
上記したように、私は表現規制反対派として20年以上、活動して参りましたが、表現規制派が間違いを指摘されてそれを認めたところをほとんど見たことがありません。
つまり、議論が成立し得ないのです。
デマを拡散する機会を新たに与えてしまう
こういった人達との議論は危険です。何故ならば、デマを拡散する機会をこういった人達に与えてしまうから。
SNSにおける議論は多くの場合、第三者が見ているものです。そして、そういった第三者のなかには、情報の裏取りもしなければ、検証もしない人達が含まれています。(きっと、私が紹介した論文もその内容を読まずに済ませてしまった人がいるでしょう……あなたは違いますよね?)
そうした情報の裏取りもしなければ、検証もしない人達はデマに触れても「そういう話もあるのか」と受け取ってしまいがちです。知識もあれば論理力もある人達からは、表現規制反対派が論拠を明示して、かつ論理を構築して主張をしているのであるならば、表現規制反対派の主張のがより説得力があると判断してくれるでしょう。
でもね。
皆が皆、そういう人達ではないのです。この問題に関して知識が無い方は大勢いらっしゃいます。論理力についても、これも不得手な方はいらっしゃるのです。
そういう人達は、デマに対しての耐性が低く、騙されやすいと言えます。二次被害を出さないためにもデマを新たに拡散させる機会を与えることは慎むべきでしょう。
周囲の理解
表現規制反対派が、その欲するところ、即ち、「表現の自由が守られている状態」を実現するためには、味方を増やしていかなければなりません。
より多くの人々に表現規制反対の主張を理解・賛同してもらい、また、表現規制反対派の政治家に票を投じてもらう。言うまでも無く、表現規制反対派として最も阻止したいものは法による規制です。
法による規制を避けるたまには、表現規制反対派の政治家を増やさねばならず、そのためには周囲の理解が必須。書き出してみれば当たり前のことです。
本来ならば、公開された議論を行うことはこの目的に合致します。そう、本来ならば。
ですが、上記したように表現規制派とのまともな議論は成立し得ません。デマを新たに拡散する機会を与えることにもなりかねない。ならば、別の方法を模索していくのが良策です。
その別の方法こそ、「表現規制派との直接の議論は避けて、その間違いを人身攻撃に堕することなく淡々と指摘し続ける」ことです
直接の議論を避けることで生じるメリット
直接の議論を避けることにより、不毛なやりとりを避けることが出来ます。また、新たなデマの拡散の危険性もより小さくすることが出来ます。
そして、第三者への影響もより直接的です。対立する二つの陣営が論を戦わせているとき、第三者は、どちらかの陣営の論理のが優れていると判断するか、それとも、どっちもどっちだと考えるか、あるいは、判断がつかず保留するか、いずれにしろ、選択肢が多いわけです。表現規制反対派と表現規制派の論争を例にとると、
A 表現規制反対派の意見のが優れている
B 表現規制派の意見のが優れている
C どっちもどっち
D 判断保留
と大雑把に分けて、四択になるであろうことがわかります。
ですが、表現規制反対派が表現規制派との直接の論戦を避け、表現規制派の間違いを淡々と指摘し、それを詳らかにしたとしましょう。このとき、第三者が持つ選択肢は、
a 表現規制反対派の指摘は妥当である
b 表現規制反対派の指摘は間違いである
c 判断保留
となります。「どっちもどっち」を消すことができるわけです。実際には、完全に消すというところまではいかないでしょうが、最小化はできるでしょう。
何故、このように言えるのか? この点については、議論をしている人達を見かけたときに第三者がどのような印象を受けるのか、ということを考えねばなりません。
あるテーマにおいて、議論が行われているとき、そして、そのテーマがその議論のギャラリーとなっている第三者にとって直接的な利害関係を持たないとき、あるいは実際には利害関係があるにも関わらず第三者がそのように考えているとき、第三者は、「そのテーマに関しては、色んな意見があるんだな」と考えます。
趣味のことでもない限りは、直接的な利害関係が無ければ興味を惹かれることは珍しく、そのテーマに関しては事前の知識を持ち合わせていないのですから、先ずは様子見から入るでしょう。
そのままどちらかが優れていると判断してくれるのであれば、特に表現規制反対派の論理のが優れていると判断してくれるのであれば、儲けものですが……実際には、そうではない。
御疑いならば、tiwtterで検索してみてください。表現規制反対派は今までに幾つもの論拠を明示してきましたが、それでもなお、「漫画やアニメに憧れてスポーツ選手になった人が実際にいるのだから、漫画やアニメに影響されて罪を犯す者がいても不思議ではない」というような趣旨の発言が確認できるはずです。表現規制派からの発言のみならず、中立的な立場を採っている人からもそのような発言があります。
上記したように、この問題に関して知識が無い方、論理力についても不得手な方というのはいらっしゃいますし、幾ら科学的な論拠を挙げたとしても、そもそも科学を重視しない人もいるのです。こういう人たちの前で、対等な立場での論戦を繰り広げたとしても正しく判断してくれると期待するのは現実的ではないでしょう。
議論は優れた方法です。これについては論を俟ちません。ですが、同時に議論は万能の処方箋ではないのです。
このように議論と言うものの性質を考えたとき、あわせて、上記した表現規制派との有意義な議論は成立し得ないということを考えたとき、対等の立場での議論は表現規制反対派にとって良い手ではないと見えてきます。
つまり、対等ではない立場を作ればいいのです。表現規制反対派が間違いを指摘する側という強力な立場を獲得し、表現規制派には間違いを指摘される側という立場を押し付けてしまうのです。
この試みが成功したとき、「どっちもどっち」という見方をする人の数を最小化することが出来ます。間違いへの指摘が正しいか否かに争点があり、議論しているどちらがより説得的かは争点ではなくなるからです。そして、間違いへの指摘が正確かつわかりやすければ、間違いを指摘する側、即ち表現規制反対派の味方を増やすことにも繋がっていきます。
他分野での実用例
さて、今回の記事の画像にはフランスはリヨンの風景を採用しております。美しい街ですね。このリヨンにも大学があるのですが、そこで教鞭をとっていた歴史学者の一人に、ピエール・ヴィダル=ナケ先生がいらっしゃいました。
このナケ先生は『記憶の暗殺者』という著作のなかでこんなことを仰っています。
「月はロックフォールチーズで出来ているなどと断言する「研究者」がいると仮定して、一人の天体物理学者がその研究者と対話するような光景を想像できるだろうか。歴史修正主義者たちが位置しているのは、このようなレヴェルなのだ。」(『記憶の暗殺者』p9より。石田靖夫 訳)
歴史学においては、ホロコースト否認論者とは議論してはならないとよく言われます。「ドイツの戦う民主主義の影響?」と早とちりしてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。ナケ先生が仰るように、余りにもレベルが低いから、そして間違いを指摘されてもそれを認めず、かつ歴史学ではとっくに否定されているデマを平気で拡散しようとするから、議論しないのです。
議論することにメリットがないから議論をしない。わかりやすいですね。
「月はロックフォールチーズで出来ている」と本気で主張するような人と天体物理学者とが議論したところで生産的な結論を導出できるわけがありません。酒の肴として与太話を聞くのも一興ですが、月について真面目に学びたいならば天体物理学者の話を聞くのがベストです。
「月はロックフォールチーズで出来ている」という与太話が入り込む隙間などありません。
ここで表現規制派の振る舞いを改めて思い出してみてください。論拠は挙げない、デマや間違いを言っても平気……。表現規制派のこういった特徴はホロコースト否認論者のそれと良く似ています。議論が成立し得ずメリットもないならば、議論しないという手法は既に他の分野では使われているのです。
歴史学者はホロコースト否認論者とは議論しません。ただ淡々と(ナケ先生が『記憶の暗殺者』で行ったように)その間違いを指摘し続けるのです。相手に間違いを指摘される側という立場を押し付けて、事実に基いた間違いへの指摘を行い続ける。これが歴史学者のホロコースト否認論との戦い方です。
現在、ホロコースト否認論を唱える人はまともな人だとは扱われません。所謂、トンデモさん扱いされてしまいます。
トンデモさんに対する常識人の目は冷たいのです。
私が「表現規制反対派は表現規制派との直接の議論は避けて、その間違いを人身攻撃に堕することなく淡々と指摘し続けるべきだ」と提言する目的は実はここにあります。
何十年も議論を続けながらまともな科学的な論拠をほとんど挙げてこなかった人達を議論の場で対等に扱うべき理由などありません。チャンスならば幾らでもあったのです。特に10年前は今ほど表現規制反対派の数も多くは無く、政治的にもより劣勢でした。にも関わらず、まともな論拠を挙げてきませんでした。
であるならば、議論に応じる必要はありません。繰り返しになりますが、チャンスは幾らでもあったのです。そのチャンスを全て無視して科学的な論拠をほとんど挙げてこなかったのは表現規制派です。
表現規制派を最終的にはトンデモさんとして社会に認知させる。そのためには、議論ではなく別の手段、即ち「直接の議論は避けて、その間違いを人身攻撃に堕することなく淡々と指摘し続ける」のがベストだと考えます。
議論を続けている限りは、第三者の目からは「このテーマに関しては様々な見方・意見があるのだ」であり続けます。ですが、表現規制反対派が表現規制派の間違いを指摘し続ける側という立場を獲得し、確立させたとき、表現規制派は「間違いを言い続ける人達」となってしまうのです。
終わり
まだ、説明すべきことが残ってはいますが、既に5000字を越えており、記事一回分の分量としてはやや冗長に過ぎるかと思います。今回はここまでで。次回は、何故、人身攻撃がダメなのかや間違いの指摘の仕方、中立派を巻き込まないメリットなどを説明したいと思います。