哲学 課題2

9月が終わろうとしていたのに、8月の振り返りをしなかったし今月はほとんど更新しなかった。
課題進んでませんね。
でもあと11個課題出します。

哲学の第2課題が先日返ってきたので残しておきます。
評価はBです。

先生曰く
言いたいことはわかるけど、自分の意見なのか筆者の意見なのかわからないね
ってことでした。
うーん、哲学難しね。
10月はテストあるけどギリギリかもしれないw
以下レポートです

1.「洞窟の比喩」とはプラトンが「国家」第7巻において哲学的思想を伝えようとしたものである。
 生まれた時から洞窟に縛られて閉じ込められている囚人たちは洞窟の壁のみ見つめて生きている。背後には火が灯されているが囚人たちは火の存在を知らない。その火と彼らの間には人形劇のような舞台があり、囚人たちの前に影を作る。囚人たちは、影こそが世界の真実だと認識するようになる。
 ある時に1人の囚人の拘束が解かれ、自由に歩き始めた。今まで自分が信じて見ていたものは人形の影だと気付き、影を現実そのものとして捉えていた不幸を悟った。洞窟を出ると明るく世界を照らしている「太陽」の存在を知る。
 自分が知った事実を仲間に伝えるが他の囚人は彼の話を一切信じず、死を持って彼を黙らせたのである。洞窟の囚人たちにとっては影こそが全てで、世界の真実など知ろうともしない。洞窟とは私たち自身を取り巻く環境であり、囚人は私たち自身である。つまり私たちが認識している世界は影であり、真の現実ではない。プラトンが考える「善のイデア」である太陽は真の現実そのものであり、現実の世界を理解可能にし、理性的なものにしている。
2.筆者の考える哲学の冒険とは、私たちがいかに人生を生きるべきなのかを考えていくことだと捉える。
 いかに人生を生きるべきか、それは自らが拓いていくものである。それは正義なのか、悪なのか、我々は常に自問自答して答えを導いている。自問自答することは今まであらゆる哲学者たちが行ってきた方法である。自分を愛することは知恵を愛することだと考える。その知恵を愛し、探求することで自ら精神とは、道徳とは、神とは何か、常に問いかけながら生きていくことこそが冒険である。哲学を行う権利は誰にでもあって、その営みによってたくさんの学びを得ることができるし、有意義でいい人生を送ることために不可欠な精神的訓練を受けるのだと筆者は語っているのである。具体的にどのように人生を生きるべきかを考えてみても、万人が同一の答えを導くことはもちろん出来ないし本当の答えには永遠にたどり着くことは出来ないだろう。何が正義で何が悪か、何が正しくて何が正しくないのか、そこに完璧な正解はないのだ。しかし、知恵を愛し、自らの考える力があれば、どのように生きていくべきかを常に試行錯誤しながら生きていくことができるのである。生きる意味はあるのか、常に謎に問いかけることで、常識や既存の考えに安住することなく、ひとつひとつの事柄について徹底的に吟味し、自分を見つめ直すことができるだろう。多くの人々は生きる意味など深く考えることもないだろう。自身の答えは自身にしかないし、それらの答えは完璧ではない。哲学という分野は参考にすべき原理や不変の学説が存在しない。自らで終わりのない旅を続けなければならないのである。
我々人間が生きていくためには本能だけではなく、理性や知恵が必要である。本能だけで生きているのは人間以外の動物と同じである。人間には考える力がある。知恵がなければ答えを導きだす冒険へも出かけられない。「こう生きなさい」と誰かが言ったとしたら、知恵のない者は鵜呑みにしてしまうかもしれない。しかし、そのように生きることで我々は本当に幸せだろうか。果たしてそれが正しいのか、疑問に思うだろう。自分の生き方は他人には理解できないこともあるだろう。それを他人がとやかくいうことも出来ないし、自分の生き方を他人に無理強いすることも出来ない。ひとりひとりが生きるために問い、答えを探している。それらは同一のものではない。これは己との対話である。積極的に自ら問題を問いかけていくことこそが哲学ではないだろうか。哲学は常に対話し続けることである。どう生きるかは自分と対話を続けることで、生きる意味を探すことができるだろう。生きる意味とは、答えのない問題であり、考え続けても答えは出てこない。しかし我々は生きる意味を探し、日々を生きている。それらを永遠に繰り返すのである。我々はこれからも答えの出ない「生きるとは何か」、いかに人生を生きていくべきかを問いながら哲学の冒険を続けていくのである。

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