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現実の人と仮想の人

記:2023年11月12日

このお話はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

【0】

 これは私がVRChatと呼ばれるソーシャルVRプラットフォームで過ごした記憶に基づいて記述している私の中の世界。
 これまで物書きというものをしたことがなく、今回の文章も推敲もほとんどしていないため、稚拙でわかりにくい部分が多いことを先にお詫びしておく。
 この世界のどこかで一人ぐらい、暇潰しに他人の妄想を覗いてみたいと思う変わり者がいるかもしれないという安直な考えのもと、自分の頭の中の窓を少し開けて空気を入れ替えのように言葉を放ち、文字に起こしただけである。内容は個人の思想の塊であり、学術的なものは一切ないことを理解した上で一読頂ければ幸いである。

【1】

 仮想世界の鏡を見た時、新たな自己が生まれた。
 これは平日の昼時に浮かんだ言葉だ。たしかその時は自分が作ったSNSを今後どのように運用していくか考えていた時だった。
 その世界のカメラによって自分の姿を映し出し、鏡の前で自分の姿を見る。そこに映る物体が自分の意思で自由に動く様子を見た時、自らの中にシナリオのない存在が誕生したのだ。
 この思想が自分だけだと少し恥ずかしいけれど、何万人以上もの人がVRプラットフォームを利用しているのなら少なくとも何人かはいるはずだ。
 私を含めこの少数派について自分なりに特徴を考えたところ、鏡に映るものに対しての認識の違い。つまり映るものは自分ではないと考えている点だ。
 仮想世界の鏡に映る存在に対しての認識は人によってさまざまだと思う。鏡に映る存在は自分ではあるが見た目だけ変わったと思う者、もしくは現実と仮想を区別する者。そして自分ではなくただのオブジェクトに過ぎないと思う者など。
 仮に鏡に映る存在が自分だと認識する者の場合、それはまるで自分の家からショッピングモールに買い物に出かけて、鏡の前で服を試着している時間のようだ。鏡に映っている自分を見ているという感覚は命が尽きるまで続く連続した人生の1区間である。
 では逆に自分ではないとしたら、その存在はどのような人生なのだろう。
 一応補足として、ここでの話は生とはなにかといった点で考えた場合、たとえ肉体がなくても現在進行形で活動している存在も生きていると見なしてほしい。この文章はそれが許容できる人を対象に書いている。ファンタジーだと割り切ってもらっても構わない。
 鏡の中で作られた新しい存在は、現実世界のライフサイクルとは違う。PCの電源がついている状態の間だけ動く。ではそれ以外の時間は氷漬けされたように停止しているのだろうか。
 私は違うと思う。身体は止まっているが、認知している思考の中で独立して活動している。つまり他者に認知されれば他者の記憶の中で活動をしているのではないかと考える。
 『それ』は、好意を持てば持つほど並列的に活動をし始める。まるで電子媒体のウィルスのような特徴を持つ。しかし人の記憶力は限界があり認知した者が想像を続けなければ、その存在の生存確率は忘却によって短命である。仮想の中で始まり仮想の中で終わる。
 肉体を持たない存在は人生がデジタルのようだ。創造者を含め覚えている人の数が1の時、初めてこの世に生を持つ。覚えている人が多ければ多いほど生存確率は高まり、0になれば本当の死を迎える。
 もともと存在していた自己を『現実の人』と呼ぶならば、私はその生まれた存在を『仮想の人』と呼ぶことにしよう。
 この話はこの二つの自己の行く末についてである。
 自分がこのVRChatで対話を重ねてきた経験で話すと、最近はVRで何かしらの事業を始めたい人や、クリエイターとして小遣い稼ぎがしたい人、生計を立てていきたい人、そして現実でオフ会をしたい人など、現実の人が多くなっていると感じる。仮想の人達は「なりきり」や「RP」という界隈に細々と生きて棲み分けがされているのかもしれない。
 それでも極まれに、公の場所で仮想の人らしき人物と遭遇する。ある日私が、初めて出会った人と会話をした。その人は他人と話すことに興味を持っていたので、ならばより多くの人と対話できる場所を案内しようと提案すると、その人は私の目をまっすぐに見てこう言った。
 「私は対話に対して、自らイベントや意図的に作られた場所に行くよりも、ここで貴方と出会ったように偶然出会って自然に生まれる対話が好き。そこに物語を感じる。だからそこへは行きたくない。」
 はっきりと断られた。第一印象はあまり良くない。もしもこの人と仕事が一緒なら私は胃薬を手放すことはできないだろう。しかし偏屈な部分は私も同じだった。私は何故か羨ましいと感じてしまった。
 それはその人が口にした「物語」という言葉に惹かれたのかもしれない。その人が探し求めているものに共感し、私はその人の未来が知りたいと思った。映画館でフライドポテトとホットコーヒーを片手に、彼女という名の映画を特等席で観たい。できることなら、求めている物語を一緒に見つけたい。そしてその人の物語の一人となりたい。
 言葉一つ一つから作られる、その人の性格は独特の世界観を持っており、まるで物語の世界から出てきたような人だった。
 また一方で、仮想世界と現実世界をはっきりと線引きしていなければ苦労しそうな人だなと思った。
 ただ、そのとき聞いた話では、その人はイラストレーターとしてのクリエイティブな活動をしていて、VRChatでポスターも作っているそうだ。そう聞くと自分よりも真面目に活動している立派な人だった。
 今でもたまにその人のポスターは見かける。それをみるとその人が元気にしているか気になる。独創的な性格は絵にも溢れており、凡人の私には何を伝えたいのか今一つわからない。
 その人は現実の人か、もしくは仮想の人と現実の人がうまく共生しているのだろうか。
 仮に前者だとすれば、色々と自分の中で気苦労を抱えて生きているように感じた。逆に後者であるならば、稀有な存在である。
 別の日、私が別の日本人がいる交流場所へ立ち寄るとその人が居るのを見た。『君がいる場所も結局のところ意図的に作られた場所ではないか』という言葉が喉まで出かかったが、楽しく話している後ろ姿を見て、私は背を向けて去った。
 今にして思えば、以前の言葉は単純にその日会っただけの赤の他人に振り回されたくないだけだったのかもしれない。
 結局その人とはフレンドになることはなく、一度きりの会話だった為、それ以上その人の物語を見ることはできなかった。二度と会うことはないかもしれないがその人に出会えて、久々にここが仮想世界であることを実感した良い思い出である。
 私がよく利用しているVRChatのとある場所に仮想の人がもう一人いる。その人は昨今、人気になっているボイスロイドを使用して会話を行う。小柄で犬耳と尻尾のついた可愛いらしい姿をしているが、お酒を飲みながら話す話題は渋い。見た目とは裏腹にどこかオヤジ臭さがある。そのギャップがまた魅力的なのだが、その人は顔、声、年齢、住所などが全く分からない。お酒を飲んでへべれけになった姿や口調から男性らしさがあるが予測の域を出ない。先程の人とは打って変わってとても友好的である。サービス精神が豊富で、こちらが近づいて撫でると、尻尾を振ってくすぐったそうな表情を返す。とても動きや表情がなめらかで仮想世界に順応している。場所を選ばず色んな人と交流するのが好きそうだ。
 ある日、昔からある古い仮想空間で一人考え事をしていると。その人がやってきた。私がこのワールドを知っていることに嬉しそうな反応をしていた。聞けばここは彼にとって思い出の一つの空間なのだそうだ。また、かなり前から仮想世界で過ごしているためか、当時いた人たちが居なくなり、昔の仮想空間にいた人たちと今いる人たちの雰囲気が違っていることを憂いている一面も見せてくれた。
 その時二人きりだったからということあり、自分も不思議とこの世界に初めて来たときのようなノスタルジーに浸った。彼のその一面はきっと、彼の物語のほんの一部なのだろう。いつも陽気で子犬のような彼が、なぜかその時だけ背中が丸くなった小柄な老犬のように見えた。
 二つ例を出した。それらに共通する疑問。それは、彼らはその後どうなっていくのだろうかという話である。
 彼・彼女らは、仮想と現実を線引きしていたとしても、やがて仮想世界で現実の人との交流によって、自分と周りの空気の違いについて気づいていくのだろうか。
 今までの活動を自己紹介し合い、仕事を貰う上で形だけの社交辞令を繰り返し、SNSで日常会話をやり取りしていくうちに、自らの仮想の人は消えてしまわないのだろうか。
 きっとそれでいいのだろう。例に出した二人も、自分たちのことを仮想の人だと固定されたくはないし、その存在を認知することなど余計な事だと思うに違いない。
 しかし私は一つの違和感を感じる。だからこれを書いている。それは反論ではなく気づきだ。一つの現象として誰にでも起こりうることの小さな出来事だけれど、今までフォーカスされていない気がするからだ。
 私たちはこの世界で無意識のうちに『現実の人として生きるか、仮想の人として終わるか』を選択しているのではないか。何故、仮想の人として『生きる』ではなく『終わる』なのかというと、仮想の人の終活について話したいからである。
 終活、仮想世界での活動の最期。 これについて考えたことのある人は多くないだろう。考える必要もないのかもしれない。
 生きる限り死に対して真面目に取り組む必要など仮想世界ではいらないからだ。現実の死でさえも一つの遊びにできる。簡単に現実の死に方を何度でも模倣して体験できる。ソフトを再起動してログインすれば何度でもフレンドに手を振ることができる。
 ただ分かっていることは、仮想の人は現実の人よりも短命であるということだ。これは様々な要因によって消えてしまうことがあるからである。一例をあげるとするならば、気づかぬうちに仮想の人が消えてしまう場合である。それは言い換えれば仮想の人という概念に気づかない無自覚の消滅。死因はいくつもある。
 一例をあげれば、仮想世界で他人に顔。声、性別、年齢、職業、住所、そして実名などといった『現実世界で変えることが困難な固有情報』を開示、または特定されてしまう事である。それを相手が知ってしまうと、いくら仮想の人になっていても、相手は認知しなくなってしまう。
 他者は仮想の人を抹消する力がある。そうなればデジタル的な寿命は1より増えることは殆どないし存在も消えやすい。
 固有情報を開示しないことが延命になる。すなわち極論をいえば仮想の人はすべてがファンタジーでなければいけないのだ。仮想の人とは、固有情報という強力な『おまじない』を開示すればするほど、死へと近づいていく儚い存在なのではないだろうか。
 そんな読者を置いていくような特徴をもった存在。
 私は何故考え続けているのか。それは私の中にいる消えかかっている仮想の人を遺しておきたいからだ。最早手遅れと行っても良いかもしれない。そんな状態であっても思考を巡らせて浮かんだ言葉の一つ一つを残しておきたくてこのノートに綴った。ただの回想録と言われればそうかもしれない。
 というのが私の脳内の戯言である。ここまで読んで疲れてきた人は読むことはお勧めしない。この話は冒頭でも話したが個人の妄想の一つであり、今日食べる晩ご飯の献立を考えることよりも重要ではない。
 それでもまだ、興味を持っていただけるならば。
 続いては他の情報から目を瞑り、しばし現(うつつ)と別れを告げて、私の過去を少しだけ見て頂きたい。

【2】

 恥を忍んで話せば、私が覚えている限りでは、初めて仮想世界で借り物の姿を手に入れて鏡を覗いたとき、そこには赤い色をした小さなモグラのような生き物がいた。ここでは生身の身体を持っていくことはできないため、必然的にその中で動かせる身体が必要になる。それを借り物の姿と呼んだが、実際に呼ばれている総称はアバターという言葉が用いられている。
 その頃は気が付かなかったが、私が身につけるアバターは最初は足の膝丈にも満たない小型の生き物から始まり、自分より知能の低そうな生き物が多かった。しかし、それでは他人と上手く意思疎通を図ることができなかった。無言で人々の前に近づいていくとパンツを覗くスケベなモグラにしか思われず、足や武器で適当にあしらわれることが多かった。

今思えば、背中の文字が哲学じみている。

 VRChatと呼ばれるVRプラットフォームにはユーザーが作り出した作品の中を、アバターを身に着けて散策することができる。私がモグラの姿を手にするために適当に入った場所も数ある作品の中の一つだ。 その頃は探検する子供のように誰が作ったのかわからない作品の中を転々と彷徨っていた。まるで誰かの絵本の中を散策している気分である。自分がその作品の中の一人のキャラクターになったかの様で、そこはまさに一つのワールド(世界)だった。
 数あるワールドの中には稀に試着できるアバターが置かれていた。その頃の無知な私は無料で試着できるアバターをお宝のように喜び、あれば必ず着替えた。中にはある程度の仕掛けを解かなければ手に入れられないものもあったので、自分の力で見つけた時は嬉しく、そして誰かと一緒に発見を共有できた時は喜びを分かち合った。
 しかし、それらは殆どが作者ではなく誰かが作ったアバターを一部改変して作ったものであり、海外ではあまり意識されたことはないが、その行為は無許可な配布という形で置かれているものだった。
 少年の心を宿していた私はそんなことなど露知らず。様々なワールドで不法投棄されているアバターを物色する中で、最終的に落ち着いたのが週刊少年漫画雑誌で有名な某忍者のコスプレをした5歳児のような小さな子供だった。

少年?


 鏡を見つめる。この頃から私のこのゲームでのハンドルネーム。『Rubeus』というキャラクターがほぼ出来上がりつつあった。
 この姿の時は、私は声が出ずに合成音声ソフトでコミュニケーションを出していた。いろんな人と出会いがあったが、時には海外の知らない人に馬鹿にされることも多かった。しかし助けてくれる人もいて胸躍る体験とはまさにこの時だった。
 この頃のRubeusにはファンタジックな構想があった。といっても物語としてもまともにできていない為、これから考えていこうと思っていた。
 ロボットのような無機物の初期アバターからモグラへと変わり、やがて人らしいアバターに変わっていく。それはさながら、自己の中で生まれた仮想世界の生き物が徐々に人へと進化していく過程のようだった。
 そこから数年の歳月が流れ、高確率で日本人に合うことができるワールドが増えた。それはまるで文明のなかった道に道路が作られていくかのようで、コミュニティが円滑になるためのインフラ が整っていった。(※1)
時を同じくして、不法投棄されたアバターを身に着けている私たちを注意する者が現れる。
 「アナタノアバターハ、イホウアバターデス、イマスグニヘンコウシテクダサイ」
 「こんにちは」と声をかけた私に対して、警告ロボットの様に近寄り、可愛いボイスロイドで冷たい言葉を放つユーザー。
 私の中の自己が変化していくように、仮想世界もまた変化していた。
 私はこのとき、素直に謝りアバターを変えるか、そのワールドから出ていけばよかったのだ。しかしなぜか、挨拶に対して冷たく言い放ってきたNPCに対して抗いたくなってしまった。
 私はこの場合の適切な返し方を知っていた。海外のSF小説では、主人公のそばにいる優秀なロボットは感情表現が欠如しているためストレートな正論を返す。そんな時、主人公は相棒のロボットに対して雑な返事を返すのだ。しかしそれは表向きには暴言にみえても裏を返せば相棒に対して素直になれない主人公なりの感謝を含んだ返事なのである。
 だから私はそれに倣ってみた。彼女(彼?)の目を見て、努めて優しく返事をした。
 「うるせぇポンコツ。」
 そして私は初めて通報された。

【3】

 ルールが引かれたコミュニティに入るにはルールに従う必要がある。 私は仕方なく子供のアバターを思い出の押し入れの中にいれた。そして体に『SAMPLE』が刻まれた宣伝アバターを身に着け、日本コミュニティを移動できる権利を取得した。(※2)
 自分にしか聞こえぬ実績解除の音。脳内に浮かぶ通知欄には『歩く広告塔』と書かれていた。そうして私は仮想世界の価値を回す歯車の一つとなった。
 いつしかアバターは現金で購入して現実世界の洋服のようにオシャレを楽しむものとなる。そして自由に改変して自分らしさを取り入れるのが定着する。
 もちろん、クリエイターの中には無料アバターで配布してくれている人もいる。その中で私はしばらく小さなウサギになっていた時期もあった。
 このウサギでいた時期が、一番私にとって多くの大切な出会いを作るきっかけとなったが、それはまた別のお話。

うさぎ?

 鏡を見つめる。出来上がりつつあったRubeusはかわるがわる変化するアバターによって揺らぎ始めた。
 Rubeusはどんな姿にでもなった。紆余曲折して、現在は狼系のケモノで中性的な子供の姿になっていることが多い。

背中に刻まれた『SAMPLE』の文字


 背中に大きな『SAMPLE』という文字が刻まれても尻尾を揺らしワールドを走り回るRubeus。その後ろで青い鳥(現在は白い罰点)のアイコンが付いたSNSの窓から、遠くで皆と集まり写真を撮っている人達を見つめる私。
 SNSやニュースサイトという眼鏡を使って窓から見えるソーシャルVRプラットフォームは活気づいていた。私は1つのプラットフォームが繁栄していく時期に偶然ログインをしていただけのユーザーの一人に過ぎなかった。
 例えここのプラットフォームが廃れたとしても、ここで創られたコミュニティはまた別のプラットフォームで活かされ仮想世界の文化は発展を続けていく。咲き乱れた花は種子を実らせ、流行という暖かい風で飛ばされて、次の新しいプラットフォームでまた新しい花を芽吹かせていくのだろう。
 今は現実と比較され仮想にはできないものばかりが目立ってきた。現実以下と判断した者はこの世界の扉を閉めて忘れていく。しかし、それはようやく現実と比較できるほど成長を遂げた証拠でもある。仮想世界は未知の体験から始まり、無秩序な時代を経て、やがて万人が快適になるためにルールが敷かれ、現実に近づいていこうとしたのかもしれない。
 現実世界は人間が生まれてから現代の社会になるまでどれくらいかかっただろうか。それと比べると僅か数年という歳月でこれほどまでに成長した仮想世界に対し感慨深いものを感じる。
 ただやはり、現実世界にとって代わることはバベルの塔を完成させるのと同じぐらい困難なことなのかもしれない。それは既に皆周知の事実だろうけれど、現実世界を超える魅力は存在している。そのため、これからは『現代人が求めている、現実にはなくて仮想にしかないもの』が今後さらに生み出されていくのかもしれない。より万人が快適にVRプラットフォームを利用でき、そして現実の生活に欠かせないコンテンツになっていく未来は遠くはない気がする。
 その時はこのプラットフォームは残っているのだろうか。もしも消えるなら、私の仮想の人も記憶とともに消えていくのだろうか。
 私はその時も、古くなった窓から見つめてるのだろうか。

【4】

 Rubeusは誰とでも分け隔てなく話した。
 君は話しやすいね、と1人のフレンドから言われたことがある。ここでは自分から話しかけていけば様々な業界の人と交流ができる。Rubeusはここの人たちと話をするのが大好きだ。単独で賑やかに談笑している人たちの輪の中に入り込み会話に混じるときもある。初めて会った感覚ではなく従妹兄弟のような感覚で話すのが大好きだ。互いに対話をしながら共感しあい、Rubeusにとって全てのワールドが公共の巨大な哲学カフェだった。
 しかし時には勢い余って男女の間に入ってしまい空気が凍ったり、警戒心の強い輪に入り誰のフレンドか確認されて不審がられたりすることもあった。そんな時でも笑いながらその場を離れるRubeusと、顔を真っ赤にして恥ずかしさを隠しきれぬ私。各々の大事な時間を邪魔して申し訳ないが、私はRubeusを咎めることはしなかった。
 どんなに居心地が良いとの謳い文句で作られている日本人集会場でも、賑やかに話す人達が集まる輪の横で、1人ポスターや鏡を見ていると影が濃くなる。
 私が初めてここに来た時自分もそうだった。何で誰も話しかけてくれないのだろうと思った。自分だったら話しかけてほしい。そう思ったとき、きっとそれは自分だけじゃなくて他の人もそうなのではないかと気づいた。
 私の感情が彼に影響を与えているのかもしれない。不思議とRubeusはそんな人を見つけると積極的によく話しかけていた。まるで過去の自分を助けているかのように。
 それが私の仮想の人だ。

 現実の私は職場で1人、机の上に置かれたパソコンの前に座り続けていることが多い。
 君は会話が噛み合わないね、と今でも言われる時がある。この閉鎖的な空間では外の常識がわからない。周りは私と同じ仕事をしていないため、私の方から報告や説明、時には相談をしなければいけないことが多い。
 しかし唯一の外ともいえる上司と仕事の話をするときは常に緊張が走る。自分が話す言葉一つ一つがまるで検査を受けている様に感じる。私は緊張すると言葉を間違える。真剣に話している最中に頭の中で準備をしていた単語の順番を間違えて、相手からまたかと苦笑いされると、頭が真っ白になることがよくある。
 日常会話を自分から話しにいくのも難しかった。顔を見なくても隣に座っている上司の溜息、キーボードを叩く音、机に脚をぶつける音、資料を開く音、煙草に行く回数、何か言うときに一度息を吸う癖、独り言、そして他人との話し方から今の感情を推測してしまい。常に相手の表情をみて話しかけるタイミングに頭を抱える。できれば話しかけたくないし、向こうも話しかけられたくはないだろうと偏った考え方に走ってしまう。唐突に相手が絡んで来た時はどう反応すれば良いか分からず愛想笑いしか返せない。
 自分はここに必要とされていないのではないか、そうであればなぜ自分はここにいるのだろうかとさえ考えた時があった。本当に自分は社会に通用しないほどに日本語ができないのだろうか。こんなにも人から話が理解してもらえない人間が外の世界で生きていけるのだろうか。ここで拾ってもらっただけでも幸せだと思うべきなのではないか。
 なんでこんなこともできないのだろう、勉強してこなかったからだ。なんで周りは仕事ができるのに自分はできないのだろう、努力をしてこなかったからだ。みんな幸せそうなのになんでこんなに辛いんだろう、それもこれも全て過去の自分の責任だ。全て正論。そう思い何度も自分を諦めた。
 これが私の現実の人。そして私の過去の一部。

【5】

 そんな中で、鏡を見つめて生まれた仮想の人、Rubeus。
 Rubeusは私ではない。だからこそ私はRubeusを通して別の自分を知ることができた。人からコミュ力があると言われるたびに不思議な気分になった。自分から声をかけることで現実で思っていたことと違う反応を見るたびに自分の偏っていた壁が崩れ、霧が晴れていく気がした。
 現実では今でも何を言っているのかわからないと諭されることもあるけれど、そこは現実社会という名の公の看板を掲げてはいるものの実態は独自の文化が形成された閉鎖空間なのだ。この狭い井戸の中で作り出された特殊な共通言語の理解が私はまだ足りていないだけ、そこに適応するための振る舞いや話し方は英語を勉強するよりも難しくはない。私の中のごく一部の能力が未熟なだけなのだという事に気づいた。
 Rubeusは知らず知らずのうちに現実世界の私に影響を与え、私の歪んでしまった価値観や考え方を矯正してくれていた。『ほら、こんな世界もあるよ。諦めることなんかないさ、もっと世界を見にいこうよ。』そうRubeusが私に伝えてくれているかのようだった。
 気づけば上司に気に入られる人間になる努力をやめた。仮想空間で身分も利害も偏見もない目から見られた等身大の自分は、普通に何が駄目で何が正しいのかを自分なりに考えることができ、そして会話ができる人間だった。だから私は今まで通り精一杯自分の出来る範囲で社会貢献をして、できる力で社会の歯車を回せばいい。自分で自分を責めるのは辞めよう。これが今の持てる全力なのだ。そう考えると肩の力が抜け、昔ほど相手の自分を蔑む発言にも気にならなくなった。
 それと同時に、Rubeusを通して私を励まし、暖かい言葉をかけてくれた人達に会えたこと、それが何よりも感謝しなければいけないし、手放してはいけない繋がりだと思う。
 ただいつしか本来の目的からは変わってしまい、結局他人ではなく、自分自身が動かし、私の感情に基づき私が声を出している。
過去の話を見ていただければわかるように。Rubeusは現実の私に似ても似つかない。もともと私は、このソーシャルVRプラットフォームを遊ぶためにRubeusという名前でアカウントを作ったわけではなく、私はRubeusを作りたかったのだ。
 声を出してしまったのがまずかったのかもしれない。いくら仮想世界が楽しいといっても、いつしか現実の仕事の忙しさや、時には自分の言葉と行動が反している人や倫理観の外れた人間との会話で生まれた心のわだかまりを自分ひとりで抱えきれなくなり現実の話を漏らしてしまうことが多くなってしまった。気づけば仮想世界のRubeusよりも、現実の私が出てきてしまっていた。
仮想の人として生きていくはずが、ゆっくりと浸食されて現実の人になっていく。
 私は鏡に映るものを自分とは別と認識していたにもかかわらず、徐々に自分と認識し始めていることに気づいた。
 あの頃色んな人に声をかけたり、一緒にワールドを駆け巡っていたRubeusはどこにいったのだろうか。気がつけば人に声をかけるのが恥ずかしくなり、日本人集会場の真ん中でぽつんと立っている私がいた。
 Rubeusとして生きることは私にとってまさに不思議な体験だった。しかし同時に、昔を振り返り、当初の目的から離れていく自分が、まるで宙に浮いている不安定な存在に思えた。
 現実の人も仮想の人も、結局は物理的に切っても切れない生身の身体がなければ生きていくことはできない。生身の身体が倒れればRubeusも動かなくなる。
 私の中にはまだRubeusは生きているが、このまま生かし続けていくならば、ワールドを散歩させているだけでは駄目な気がする。
Rubeusは誰にでも話しかけて明るくて無邪気だが、仕事を持たない風来坊である。それは現実の自分に時間が9割型、全て奪われているせいでもあるのだが。
 仮想の人を生かすなら、生身の身体を労ることも大事だ。その為には、仮想の人としてただ無駄に時間を過ごすことはよくない。現実の人に時間がとられてしまっているのは、そうしなければ生きていけないからという意味の裏返しでもある。
 この1つの身体から伸びるアンビリカル(命綱)で繋がれた現実の人と仮想の人が残り続ける道は、二つがそれぞれ自立していることが望ましいに違いない。
 鏡を見つめる。Rubeusは尻尾を振りながら私を見つめている。私はRubeusに問いかける。
 「なあ、君は何ができる。これから何がしたい。」
 狼姿のRubeusは無言で私を見つめている。純粋な瞳だが、少し瞼が閉じかかっておりアンニュイな雰囲気が漂っている。私の今の心境がアバターにも反映されてしまっているのだろうか。明るくて陽気な子だったはずなのに。売れ残って埃が被ったヌイグルミのようになってしまったRubeus。それでも彼は表情一つ変えない。
 私はRubeusが好きだ。これからも仮想世界を走り回っていてほしい。
 これは例えばとあるVTuberが動かしていたキャラと自分が乖離してしまったとき。もしくは中の人などいないと謳っていたにもかかわらず、現実の人が特定され周りから一緒だと認識されるアクシデントが起こったとき、自らが生み出したこの愛らしい子をどうするか追い詰められた時と同じような感覚に近いかもしれない。
 私がRubeusを残したいと思った気持ちは、誰かの心に届くのだろうか。
 どうすればいいのだろう、Rubeusよ自立してくれ。そう考えていたらファンタジーの中でさらにファンタジーが起こる。鏡の中のRubeusが動いた。
彼は私の近くまで顔を近づけて私の心に語りかけてきた。
 『別の世界に行きたいな。』
 残念ながら私の仮想の人は、まだまだ自立できそうにないかもしれない。


注釈

(※1)この仮想世界に居て気づいたことは母国語が日本語で良かったと思ったことだ。日本コミュニティでは声を出せば挨拶までは簡単にできる。痒い所に手が届くような新設設計なギミックも多い。もし現実世界での仮想空間への需要が、環境問題の意識改革の一助として取り組まれたレジ袋有料化と同じ程取り上げられていれば、日本人の何もない場所を豊かにするための電脳世界インフラ構築技術(ヘンタイパワーエンジニアリング)はマスメディアに取り上げられていたかもしれないとさえ思える。もちろん日本以外にも素晴らしいギミックを作っている人は多くいると思うが、新規参入の人に対してバードルの敷居を下げるように取り組む活動は未だに私は耳にしたことがない。それは自分自身の情報収集能力が低いということを意味しており、日本語以外も話せることができたらもっと有益な文章を読者に届けることができたに違いない。

(※2)無料で使えるアバターもあるが、外部ソフトを使用してこのプラットフォームに持ってくる作業が手間で、コストに見合う良さがあまり感じられなかった。 身につける宣伝アバターにも特徴がある。 目の前に板ポリ(低ポリゴンで作られた極度に薄い板のようなポスター)が目立つように表示されているアバターや、頭の上に四角いボックス型の広告を浮かべているアバター、他にも足元の周囲にリング状の白透明の帯が回り、電光掲示板型の宣伝アバターなど様々であった。一人一人に作者たちがアバターを使ってほしいという工夫や想いが感じられる。 その中でもsampleというロゴ自体が一つのデザインのように服にあしらわれたアバターや、控えめなボディペイントようにクールについているアバターは比較的目立たず、特にお気に入りだった。 これらのアバターはpublicな場所を歩くときは今でも愛用しており、製作者のデザインセンスに感謝している。お礼となっているかはわからないが、今でも私はそのアバターが似合う人に出会ったときは布教している。


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