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背徳のハニートースト #ごちそうさまグランプリ

子供がまだ小さかった10数年前、私の住む街に小さなカフェがオープンした。
水面で幻想的に咲く白い花の名前をあしらったそのカフェは、夜にだけオープンする。地方都市の片隅の、田畑ばかりの真っ暗な街でカフェはぽっと光っていて、暗い池や沼に咲くその花の名前と同じだった。
マジックアワーもすっかりすぎた夕暮れに、渋滞した幹線道路をのろのろ進む車の中から、そのカフェの奥をじっと眺めていた。

行ってみたいな。

そう思いながらも、職場から一目散に子供の待つ家路を急ぐ日に追われ、いつの間にか何日、何ヶ月と過ぎていた。

「行ってくればいいじゃない」
夫は言ってくれるが、フルタイムの仕事を終えて、慌ただしく帰宅して、諸々の家事をこなし、子供を寝かしつける。キャパが小さい私にはそれだけで、体も心もへとへと。
子供と一緒に入った布団は、あたたくて心地よくて、このまま朝まで眠ってしまいたい誘惑に勝てなくなる。いつの間にか、夢も見ない深い深い睡眠の世界へ。
ハッと目を覚ますと、すでに時間は深夜を回っていて、カフェの閉店時間をとうにすぎている。ああ、今日も行けなかったな…… 残念な気持ちと、行かなかった理由ができてほっとする気持ちの両方を抱えながら、寝返りをうって、布団を掛け直し、
「明日こそは、行こう」
と自分に言い聞かせながら、また眠りにつく。
そんな日が、長いこと続いた。

用事があって夜遅くに帰宅した日、あの花の名前のカフェのシャッターが下りていることに気が付いた。
まさか、閉店しちゃったのだろうか。
心配していたところ、10日ほどすぎると、カフェは営業を再開した。

「行こう」
行かなきゃ、今度は本当になくなってしまうかもしれない。
今夜こそ行こう。絶対、行こう。

いつもどおり、子供の寝息につられて、自分のまぶたが落ちそうになる。
「ルミさん、行くんでしょ?」
音もなく、暗い寝室に、明るい光がすっとさして、夫が起こしに来てくれた。

布団から抜け出して、パジャマから普段着に着替え、そっと家を出た。
時刻は午後10時。
車で、カフェに滑り込む。明かりがついていた。よかった、営業している。
ガラスの引き戸を開け、店に入る。コンクリート打ちっ放しの床は、靴を履いていてもひんやりとした空気が立ち上ってきた。

「いらっしゃいませ」
静かな声で、女性店主が迎えてくれた。
多分、20代後半くらい。すらっとスレンダーで、ショートカットの髪。静かな佇まい。
水面に咲く白い花の店の名前は、店主の雰囲気まで表していた。

店は、間接照明とキャンドルの明かりで、薄暗かった。
私のほかに、若い男女が1組。
テーブルのキャンドルを挟んで向かい合って、静かに語らっていた。

「ジンジャーエールください」
車で来たので、お酒は飲めない。メニューにはカクテルやビールの名前も載っているけど、今夜はジュースで我慢。
子供と晩御飯を食べてから結構時間がたっていて、ちょっと小腹が空いてきた。ケーキでも食べようか。
改めてメニューを見る。
「ハニートースト」
バターのしみこんだ5枚切りのトーストの上に、とろりと琥珀色の蜂蜜がかけられている様が頭に浮かんだ。
美味しそう。
甘いトーストと、ピリッとしょうがの効いたジンジャーエール。
うん、合いそうだ。
美味しかったら、朝ごはんに真似しよう。ふふふ。

「ハニートーストください」
すると店主が、ちょっと申し訳なさそうに、
「すみません。今、パンを焼いているんです。あと10分くらいで焼けるので、待ってもらえますか?」
はい、待ちますと答えると、店主は店の裏に消えた。

置かれていた雑誌をパラパラとめくった。けど、鳥目の私には、文字がよく見えない。ぼーっと時間を潰す。誰に呼びかけられるでもない、一人時間が心地いい。
先に届いたジンジャーエールの氷が溶けていく。

「お待たせしました」
店主の声に、顔をあげると、手には想像以上に大きなお皿。
そのお皿には、食パンがどんと1斤乗っていた。
え、ハニートーストって、食パン1斤なの!? これ1人前!?

焼きたての香ばしい香りが立ち上り、ほんのりと食パンに熱を感じた。
大きな食パンの上部の耳がカットされ、中身が見えている。パンの表面は、こんがりとトーストされていて、食べやすく、大きな碁盤の目のような切り込みが入れらていた。そこに、蜂蜜とバターが染み込んでいて、黄金色に光っていた。
食パンの上には、バニラアイスクリームと、ホイップクリームが山のように乗っかっていて、さながらパンを器にした、大きなパフェ。

アイスクリームは、焼きたての食パンの熱で、とろりと溶け、パンに流れ込んでいた。
はっと、巨大なハニートーストの衝撃から我に返り、フォークを手に取る。
アイスクリームとホイップクリームをさけながら、食パンをフォークで刺して持ち上げる。パンから蜂蜜がたらりと溢れ、その筋が金色に光る。
食パンのお皿に口を近づけて、パンを口の中へ放り込むと。バターのコクと蜂蜜の甘さと、アイスクリームのバニラの香りとホイップクリームのふわふわ感が、ぱーっと口で弾けた。
はあああ、幸せ。

甘さとバニラの香りでいっぱいの口の中を、ジンジャーエールでリセットする。
もうひとすくい。今度はアイスクリーム多めで。
パンの熱とアイスクリームの冷たさが、たまらない。くううう。
今度はホイップクリーム多めだ。
ミルクの香りとバターと蜂蜜。たまらない。
最後は、全乗せ。
パンに、これでもかとアイスとホイップクリームを乗せて食べる。
ううう、昇天しそう。

多分、一心不乱に食べたのだろう。
今が夜中であることも、眠っている子供達のことも、夫のことも、うまくいかない仕事のことも、全部全部忘れて、貪るように食べたのだろう。
記憶がない。

次に記憶があるのは、空っぽになったお皿と、店主に「美味しかったです」と言ったこと。
それから、このハニートーストが一体何キロカロリーだったのかということだ。

時計を見ると、日付が変わろうとしていた。

深夜に、バターと蜂蜜とアイスクリームとホイップクリームまみれの食パンを1斤食べる背徳感。

子供には「寝る前にお菓子を食べちゃダメ!」なんて言ってるくせに、矛盾していて、ごめんよ、子供たち。
いい母でも妻にもなれなくて年中落ち込むし、世間の目や自分の中の「うるさいやつ」に縛られて、正しい人間でいなくちゃいけないと苦しくなるときがある。それに疲れて、時にはハメを外してみたくなるけれど、それもやっぱりできなくて。
食パン1斤のハニートーストの背徳感くらいでハメが外せるなら、許しておくれ。多少体重が増えるのもよしとしておくれ。

「こんな時間まですみません!」
店には、客は私一人。もしかして、私のために、店主は店を閉めずにいてくれていたんだろうか。
「いいんですよ。ごゆっくり」
と言われたものの、家で待っている子供や夫が気になりはじめる。
「いえ、今夜はこれで帰ります」
「またいらしてください」

また来ようと思いながら、いつもどおり家事の諸々に終われ、あのお店には行けずじまいだった。
しばらくして、店は閉店した。
風のうわさで、店主は海を渡って旅にでたとか。

もう食べられないと思うと恋しくなる。
あの背徳のハニートースト。

ごはんさんの、こちらの企画に参加させていただきました。
おかげで、過去の美味しかった記憶を思い出せました。
ありがとうございました!

*注:サムネイルの写真は、私の食べたそれではありません。



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