読書感想文2冊目:「手のひらの音符」
私は他の人からどのように見られているのだろうか。
明るい人? 元気な人? 優しい人? 暗い人? いじわるな人?
快活で明るく全てを持っていてキラキラしている人も、本当は大きな苦しみを抱えていたのかもしれない。
最近の著名人のゴシップ記事を見て、そう感じることがある。
私の子どものころの話に、少しお付き合いいただきたい。
保育園のころ、週に何度か、お昼寝の時間に母が私を迎えに来た。
私は団塊ジュニア世代で、当時は、とにかく子どもががたくさんいた。だだっ広くて冷たい板間の部屋に布団がびっしり敷き詰められいた。でも、私は布団を敷かずに母の迎えを待っていた。やおら身なりを整えた母が迎えに来て、私は急いで帰り支度をし、母に手を引かれて保育園を後にする。
母に連れて行かれるのは、大学病院の眼科。
遠視と乱視、弱視。
遠視とは近視の反対。遠くが見えるのに近くが見えない。
乱視とは、眼球がまん丸ではなく、ラグビーボールみたいにゆがんでいること。
弱視とは、メガネやコンタクトレンズで矯正しても、視力が上がらないこと。
私の目はその三重苦だったのだ。初めて牛乳瓶の底みたいなメガネをかけたのは、保育園に上がったすぐだったように思う。当時、私の住む田舎では子どもがメガネをかけるというのは、相当珍しく、赤いプラスチックのフレームのメガネの私はとても目立っていた。
そして、子どものみならず、大人でさえ「子どもがメガネなんて変わってるわね」と平気で言うのだ。そういう時代だった。
私は、週に数回、大学病院の眼科で遠視と弱視を矯正する目の訓練を受けていた。
幼稚園に上がるころには、私の右目は、大きな絆創膏のようなもので塞がれた。アイパッチというものだ。
乱視がきつく弱視がある左目は物が見えづらいので、脳が勝手に右目だけで物を見ようとする。そうすると使わない左目がどんどん退化し、ますます見えなくなるという悪循環に陥るらしい。そうならないように、強制的に左目を使わせるため、右目を塞ぐという訓練。
ベージュの大きな絆創膏のようなアイパッチを右目に貼って生活する。幼稚園に行くときも、家で遊ぶときも、起きている間はずっとつけていないといけない。その姿は、メガネ以上に奇異に見えた。誰もが珍しそうにこちらをじろじろ見る。
割と物わかりのいい子どもだったので、メガネの必要性もアイパッチの意味も理解していた。奇異の目で見られたり、いじられたりするのは小学校になっても続いた。
こんな話をすると、あなたは、私をかわいそうな子どもだと思うだろうか。
私には2つ違いの妹がいるが、母と眼科に行くときだけは、母を独り占めすることができた。病院の帰りには、決まってバス停近くのパン屋で焼きたてのウサギの顔の形をしたパンを買ってもらって熱々を食べた。
寝つけなくて先生に叱られるお友達や、私の母を見て里心がついて泣き出す子を尻目に、堂々と帰るのはちょっと優越感だった。
左目しか使えなくても、なんでもできた。
あの時はなんとも思っていなかった。
いじられるのや変な目で見られるのは嫌だったけど、治療の必要性を理解していたので、多少のいじりならスルーできたし、相手とケンカするのも平気だし、先生に言いつけて懲らしめてもらう手段も知っていた。
卒業文集に「お笑いに入りそうな人」と書かれるくらい、私は周りから明るく賑やかな人に見えていた。
でもやっぱり心のどこかで、自分は人とは違っていて、何もしなくても目立つことにコンプレックスを感じていた。
今もまだ、良きにつけ悪きにつけ、自分だけが目立つのはちょっと抵抗がある。
人は誰しも、周りには見せない苦悩や葛藤がある。
誰にも見えないところで、自分の心の置き場を探し、苦しみから抜け出そうともがいている。
そして、そういう中で大切な人に出会ったり、人の優しさに触れたたり、大きな学びがあったりするのではないだろうか。
それが、その人オリジナルの生き方を、かたちづくるのではないだろうか。
「手のひらの音符(新潮文庫)」藤岡陽子
主人公はデザイナーの45歳の女性。自社が服飾部門から撤退することになり、リストラ寸前のときに、恩師ががんで余命幾ばくもないと知らされ、故郷へ帰る。
子どものころのこと、学生時代のこと、音信の途絶えた幼なじみとの思い出。親との確執。故郷に戻って、過去を振り返ったとき、自分の今を支えてくれているのは、あの頃の思い出と、大事な人との出会いと別れなのだと気づく。
読みながら、知らず知らず自分の過去に引き戻され、過去も今も肯定している。そんな優しくて力強い物語だった。
私の人生も、まだまだ途中だ。いつか「他になかった」と思える日まで、迷いながら、もう少し頑張ってみようと思う。
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