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静寂に会いに行く

うるかったの蝉の声が、寺の門をくぐった瞬間、なぜか心地よく聞こえた。

8月の真っ青の空に、木々の緑が映え、まだ朝早いというのに、すでに日差しは石畳を真っ白に光らせるほど、強く照りつけている。
だけど、ここは、門の外より気温が3度低かった。

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京都は東山の勝林寺。
お盆を過ぎたばかりの京都は、予想通り、まだまだ暑かった。
分かっていながら、夏になると京都に行きたくなるのはなぜだろう。

四条河原町からバスに乗ってここまでやってきた。京都に強い友人Mちゃんが、バスの系統をチェックしてくれて、最寄りのバス停からは彼女のGoogleマップがここまで連れてきてくれた。
気がつけば、この門の前にいた。

「京都で何が見たい?」
Mちゃんに聞かれて、即答した。
「写仏」
「なにそれ(笑)」
Mちゃんから、笑ったイラストのLINEスタンプが送られてくる。
「なにって、仏様を書くんだよ。写経はお経を書くでしょ。仏様を書くから写仏」
「へえ、そんなのあるの?」
「それがあるんだよ。ここ、ここ」
ネットで見つけておいたサイトのURLを送った。

「面白そう! 行ってみようか!」
Mちゃんの同意を得て、念願の写仏をしにいくことになった。

仏像が好きだ。高校時代から、日本史の教科書の仏像をうっとり眺めるような、仏像好きだった。特に詳しいわけではない。教科書に載っている程度にしか知識はないけれど、仏様の慈愛にみちた福々しいお顔、世の中に睨みをきかせた厳しいお顔、ふっくらとした体、がっちりと筋肉で固めららた逞しい体、身にまとう布の優美な流れ。全てが美しいと思った。

折しも、仏様の絵を描く「写仏」なるものがあると知った。
私も、仏様の絵を描いてみたい。

Mちゃんが、京都旅行に誘ってくれたのは、渡に船。このチャンス逃すものか。

お寺の門から本堂までの小道を歩く。
木々に囲まれた境内はこぢんまりとしていて、しんとした静けさが広がっていた。
観光客で溢れかえる京都の中心部とは全く別世界。
門から本堂までの小道は、掃き清められ、木の葉一枚落ちていない。
小道の右手の生垣からは、小さな朝顔が1輪、顔を出していた。

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「千利休の茶室みたいだな」思わず、写真を撮った。

本堂で、お参りを済ませる。

本堂の入り口には、たくさんの履物が並んでいた。
本堂の中を覗き込むと、驚いた。本堂の左手奥の部屋に人がいたからだ。20人ほどだろうか。こちらに背を向け、座っている。よくよく見ると、みな静かに座禅を組んでいた。
不思議な空間だ。こんなにも人がいるのに気配がしない。座禅なのだから当たり前だけど、誰一人声を発しない。静かに目を閉じ、動きを止めた人々が、静寂の空気に溶け込んでいた。時折、住職さんの静かで低い声が音楽のように聞こえてくる。ほかに聞こえるのは、蝉の声だけだ。

お手伝いらしき女性に案内され、私たちは座禅体験とは反対、本堂の右手奥の部屋に通された。
そこは入り口を中心に左右に広い部屋で、左手の奥の窓が大きく開け放たれて、緑の小さな庭園が広がっていた。その手前には、縁側を挟んで写仏用の文机。
窓を額縁にした、大きな大きな日本庭園の風景画を前に、腰を下ろした。

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「どの仏様をお書きになりますか」
先ほど案内してくださった女性が、仏様の絵を数枚持ってきてくださった。

私が選んだのは、虚空蔵菩薩様。
ふっくらとしたお顔に、きらめく装飾。すべてを包みこんでくれるようなそのお姿が目に入った。これにしよう。
別に何に苦労しているでも悩んでいるわけでもないけれど、「受け入れてほしい」という漠然とした願いが、いつも心の隅っこにある。絵に描かれた虚空蔵菩薩様は、「なんでも受け入れてあげよう」と私に優しく語りかけているようにみえた。

お手本の絵を下敷きに、真っ白い半紙を上に重ねて、筆ペンを持つ。
お手本がうっすらと透けて見える。子供がよくやる遊びの「写し絵」と同じ手法。なるほど、これなら絵心の全くない私にもできそうだ。

「下のほうから書き始めて、徐々にと上のほうに書き進むと、書きやすいですよ」
お寺の女性にアドバイスにしたがって、さっそく書き始めた。

仏様の台座の蓮を書く。

「ああ!」
一筆目でしくじった。
筆を置いた瞬間、墨がドバッと滲み出た。元絵の2倍、いや3倍の太さの線になる。あーあ。
私はペンでも鉛筆でも、筆でも細い線が書けない。仕事でも人並みの太さの線を書くために、わざわざ0.38の極細ボールペンを使っている。小心者のくせに、文字だけデカイ。ここにも、それが現れた。

よし、気を取り直して、もう一本。
今度は慎重になりすぎて線がかすれた。
はぁ。
慣れない力で筆を走らせると、線が揺れる。太ったり痩せたりする。

書いても書いても納得のいく線にならない。
焦ると元絵から線が外れる。
ああ、もう。いつも私はこうだ。優柔不断で、よく見せようと頑張って、空回りして、結果は散々。
自分がない。迷いばかりの人生だ。こんなところにも性格が表れる。

もう、どうでもいいかな。
今度は投げやりになって、太い線のまま、ちゃっちゃといい加減な線を描き始める。明らかにクオリティが下がるのがわかる。すると、またそれが腹立たしい。
隣に座るMちゃんの仕上がりを盗み見る。
彼女は、アドバイスを無視して頭から書いている。そしてうまい。さすがだ。迷いがなくて、強い彼女の性格を物語っている。
「ああ、ダメだなあ、自分」なんて、勝手に落ち込んだり。
いかん、いかん、自分の絵に集中しよう。

不思議なことに真夏の京都なのに、ここは自然の風が優しく吹いていて、暑さを感じない。お隣が幼稚園かなにかだろうか、小さな子供の歌声らしき声が聞こえる。今時の子供たちはどんな歌を歌うんだろう。
子供の声に耳を傾けつつ、ひたすら筆を進める。

ふと、蝉の声が消えた。時折、さわっと風が吹いて庭の木々の葉が揺れる音が聞こえる。真夏に木の葉の声を聞いたのは何年ぶりだろう。
室内の程よい暗さと、心の静けさがシンクロした。

線を引くたび、自分に言い聞かせる「慎重に、でも大胆に、焦らず、さっと書け」
ひたすら、元絵の線をなぞり、筆先に集中して、何本も何本も線を描く。

どれくらいの時間が経ったのだろう。
「できた!」
思わず声を漏らして、筆を置いた。
水の底から浮上して水面に顔を出したように、ふう、とため息をついた。

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とてもいい時間だった。

朝起きてから寝るまで、エアコンのきいた季節感のない部屋で1日を過ごしている。職場に行けば、ひっきりなしにやってくる仕事の依頼と電話、会議、出張、慌ただしくて目まぐるしい。定時がくれば職場を飛び出して、家まで一直線。
空いた時間はずっとnoteやTwitterを眺め、何を書こうかと考えている。
頭はいつもフル回転。休む暇もない。眠っても夢ばかり見て、何度も目が覚めて、ぐっすり眠れた日がいつだったのか思い出せない。

頭を空っぽにして、スマホも見ない、誰にも話しかけられない、できるかできないかジャッジもされない、ただ線を描くことに集中した写仏の時間はとても貴重だった。
今の時代には「贅沢」なものかもしれない。

完成した仏様は、どこか自分に似ているような気がして、とても愛おしいし神々しい(仏様なのに!)

虚空蔵菩薩とは、宇宙のように無限の智慧と慈悲が収まっている蔵。
知恵、知識、私の好きなもの。だけどなかなか手に入らない。世界は広くて、私の脳みそは小さくて、詰めると、どこかがこぼれ落ちる。
それでも知りたい気持ちがとまらなくて、やらねばならないこともなくならない。脳みそはオーバーヒート寸前で、体のエンジンは空ぶかし、ちっとも前に進めやしない。ただ散らばった知識の断片、言葉の切れ端が、虚空を舞うような日々。

このわずかな時間で、真夏の地面のように焼けついた頭の中は、打ち水をしたようにしんと静まりかえって、ぐるぐる回り続けた思考はピタリと止まった。
ずっと頭から離れなかった不安や心配が、ふと、どうでもいいことのように思えた。多分、世界は何も変わっていない。変わったのは自分の思考。

京都の夏は暑い。なのに、行きたくなるのは、暑い京都で、涼しい心を取り戻したくなるから。仏様のような穏やかな心と静かな時間を取り戻したくなるから。

虚空蔵菩薩を描いた紙を写真に収め、奉納してお寺を後にした。

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あれからもう1年半が過ぎた。
脳みそはそろそろパンク寸前だ。
夏じゃないけど、こんなかわいいなまずちゃんと心の静寂に会いに行きたい。

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嶋田 智駄伽(ちたか)さんの、こちらの企画に参加させていただいています。


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