見出し画像

近所のお店が心配なくらいの心配性を直したい

近所にお気に入りの飲食店が、数軒ある。
どこも個人経営の小さなお店。
客の細かいニーズに気前よく答えてくれるし、店員さんのサービスも、マニュアルじゃない、心からの対応がいい。じんわりほっこり優しくて、本当にいいなと思う。
いつまでも、そこにあって欲しい。

そういうお店には、できるだけ足を運びたいと思っているが、やはり外食にはお金がかかる。家族4人で行けば、それなりの金額を支払うことになり、たびたび通うことは難しい。

最近、夜、ウォーキングをしている。
お気に入りの店を見つけると、自然と目がいってしまう。駐車場に車が一台も停まっていない日があると、とても悲しい気持ちになる。
自分が今日、お店に行けなくて、売り上げに貢献できなかったことを申し訳なく思うのだ。

「今日は売り上げ、ゼロか……」
閑古鳥のなくお店で、肩を落として、来ない客をひたすら待っている店の大将。このままじゃ、店の経営が立ち行かなくなる。店のローンもあって、子供達はまだ小さくて、これからますますお金のかかるというのに、客は思うように入らない。安いランチ営業だけじゃ、赤字だ。新メニューを出したり、サービス券を作ったりいろいろやっているけど、効果はイマイチ。これからどうしようか。
そんな、お店の大将の気持ちを勝手に想像して、胸がざわつく。
私一人、客で行ったとしても、お店の売り上げにいかほどの貢献もできないんだよなあ、なんて落ち込んだり。
勝手に近所のお店の経営状況が心配になるのだ。

こういうことが本当によくある。
お気に入りの店に客が入ってないと苦しくなるという現象。
見なきゃいいのに、店の前を通ると、ついつい客の入りを確認してしまう。

子供の頃からそうだった。
友達と行った神社の縁日で、境内の真ん中から外れた人目につかないところで、せっせとたこ焼きを焼くおばあさんを見かけた。
お客さんは、一人も見えない。だれも、そのたこ焼き店の存在すら気づかない。
おばあさんは、汗だくで、一つも売れていないたこ焼きを焼き続けていた。
焼きあがったたこ焼きが箱に入って、積み上げられている。
日が暮れるまであと少しという時間で、このまま焼き続けても、これ以上売れないというのは目に見えていた。

晩御飯の前にたこ焼きを買って食べるなんて、バレると母に怒られそうだし、少ないお小遣いは、くじ引きやわたあめや他に使いかったのに、おばあさんの焼くたこ焼きを買わずにいられなくて、残りの小遣いを全部使って、買ってしまったことがあった。

全部自分の妄想だってわかってる。
私の人生に関係のないこともわかっている。
だけど、まるで自分のことのように、自分のせいでそうなったように感じてしまう。見ず知らずのたこ焼き屋のおばあさんのことが心配になる。

つまりは、なんでも悪いほうに、悪いほうに想像する癖なのだ。
たとえば、出張に行こうとする。
まず、心配するのが飛行機が飛ばないかもしれない。ホテルの予約ができていないかもしれない。朝起きられないかもしれない。
そもそも、出張する日やアポの時間を間違えていないだろうか。
もし、そうだったら、どうしたらいいのか、起きもいないのに、プランB、C、Dくらい考えてしまう。

子供のこともそう。
大学進学して、家計が破産したらどうする? 夫や私が働けなくなったらどうする? 家を出てしまった子供は、もう帰ってこないんだろうな。子供が一人でちゃんと生きていけなかったらどうする? 
おかげで、子供に「好きなように生きろ」と言えなくて、つい安パイな生き方を押し付けようとしてしまう。

人間は長い間、命の危機と隣り合わせで生きてきたら、きっと私のような最悪の想像ばかりする人間も、当時の危険回避の意味では役に立っていて、生き延びてきたんだろうから、世の中に必要な性格であると思うので、この性格を絶対直したいわけではない。

ただ、これだけ安全で、なんでもチャレンジできる時代にあって、心配性の人間は、生きる世界を狭めてしまっていて、結構損しているのかもしれないなあと、最近よく思う。
それは、きっとnoteをはじめて、いろんな人の生き方を見て(読んで)きたからかもしれない。
たくさんの生き方があって、苦しい時代もあったとしても、今を生きている人たちがいた。失敗を乗り越えてもっといいものを生み出す人がいた。

世界はもっと広くて、今の苦労が人生の全てではない。
今うまくいかなくても、きっとどこかで、花開く時がくる。

そう信じられるくらい、2020年は、もう少し楽観的に生きる人間になりたい。


こちらの企画に、参加しています。


サポートいただけると、明日への励みなります。