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小説「めしやエスメラルダ」連載 1

(1) 人情酒場めしやエスメラルダ

202x年、東京都内だが都心部から電車に乗り継いで1時間近くかかるその商店街で、一人の男が遅めの夕食をとる店を探していた。

くたびれた、もう中年というより初老と呼ぶべき年齢にさしかかっていた、おそらく50代後半のサラリーマン。

歩合制の営業のカタログのはいったカバンを重そうにさげて、今日の営業先だったその商店街でまだ開いている一人で入れてそんなに高そうでない店を求めてさまよっていた。小さな居酒屋のようなところでよかった。

すると、商店街から一歩はいった路地に、「めしやエスメラルダ」という看板が目に入った。

片付け忘れたのか写真入りのランチセットの立て看があり、それを見ると、「タコスランチ4個で550円」とある。

男は老眼で目を細めながらそれをじっと眺めると、自分にしか聞こえない独り言を言う。

「本物のトルティージャ使っているようだな。カルニータに、パストールに、チキンに、そしてこれは魚のフライか。衣からみてバハのやつとはちょっと違うな」

まるで、平成時代に流行った漫画の孤独のグルメの主人公のように、その店を吟味している。さて、ここに入るべきか否か。どうせアパートに戻っても1人だし食べるものはなし。薄給で外食ばかりはきついが、たまにはこういうのも食べてみるか。酒はビール1本くらいにしておこう。さて、ビールは飲めるのかな。。。

中には客はいないようだったが電気はついていて開いているようだったので、意を決してドアを開けて入る。

「イラッシャイマセ」

ほぼ完璧だが、ちょっと外国のアクセントのある声で、カウンターにいた女性が微笑みかけてくる。

「あいてますか?1人なんだけど、食事まだなので。なにか食べるものと、それからビールとか?」

「勿論デス。カウンターでいいですか?」

小柄で褐色の肌の女性が聞く。メキシコ人なのだろうか、彫りの深い顔で、大きなピアスをしている。

男はカウンターに座り、隣の開いている席にカバンを置く。

メニューを開く。

なになに、のっけからけっこう本格的なタコスのラインナップ。なにものなんだ、こいつら。

食事の詳細を吟味する前に、まずはビールを頼む。

3種類あるビールのメニューに、アサヒ以外に、メキシコの大衆ビールのテカテを見出す。輸入ビールなのにぼってなくて、国産ビールより50円高いだけの値段。

「えーとまずとりあえずビールは、ここってメキシコ料理なんですか?このテカテ飲みたいな」

「はいわかりました」女性が微笑む。

「うちはこれでも本格メキシコ料理なんですよ」

シンイチは思う。

メキシコか。

もう25年行っていない。

スペイン語も忘れてしまった。

メニューには、タコス5種類と、豚の皮をカリカリに揚げたチチャロン、パブリカの肉詰めとか、懐かしい料理が並んでいる。

ビールが出てくる。

懐かしい、テカテ。瓶のデザインがまったく変わっていない。

「日本語、じょうずですね?」女性に聞く。

「いいえ、まだまだですけれど。留学で日本に来てこれで3年目なんです」

「どちらの国から?」

「私はボリビアです。でもこの店のオーナーシェフは日系のメキシコ人なんです。なので本格的なメキシコ料理なんですよ」

「へええ。古い商店街、それもちょっと寂しくなったアーケードのはずれだし、店のつくりが昭和のスナックみたいだったから、全然わからなかったなあ。けっこう驚きです」シンイチは笑う。そして、ライムをちょっと絞ってテカテを一口飲む。

「うまい。このライムもメキシコのライムの味。かぼすと違うよね」

「お客さん、メキシコに行ったことがあるのですか?」

シンイチは一瞬表情を曇らせて、答える。

「昔。すごい大昔にね。何度も行ったし、住んでたこともある」

「そうですか。いつ頃でしょうか?」

「忘れちゃったなあ、と言いたいところだけど、そんなの忘れないよね。もう30年近く前。1994年の12月に行ったのが最後だった」

「そうですか。たしかうちのシェフのヘスースが生まれたのもその頃だったかしら。そう、お客さん、お食事どうしますか?おなかすいてるでしょう?」

「あ、そうだった。じゃあ、チチャロンとこのタコス4種おねがいします」

「はい、チチャロンとタコス4種ですね。うちの魚のタコス、ペスカードスは特別ですよ。普通の太平洋側のバハ・カリフォルニア式の天ぷらっぽいのではなくて、シェフが修行したメキシコ湾側のベラクルス式で衣が薄いんです」

ドアがドアについたベルの音でカランカランと開くと、20代の男性が入ってきた。

「オハヨゴザイマス」と元気な大きな明るい声でその若者は言う。

「ハイ、ヤン」と女性は微笑む。

シンイチは、その若者に軽く会釈する。

「うちのバイトさんなんです。中国から来た。私もバイトなんですけど」

シンイチにはすぐわかった。二人が付き合っているなと。

なんとも微笑ましかった。20代のふたりの、生まれも育ちも全然違う留学生が日本で知り合って恋に落ちた。そんなところか。

ヤンと呼ばれたバイト学生が、エプロンをつけて入り口にあったビールを奥に運んでいる。「オハヨゴザイマス」という声が奥から聞こえる。奥はキッチンだろうか。

ヤンがつけたのか、店に音楽が流れてくる。

古いメキシコの歌謡曲。

知らない曲だったが、トリオ・ロス・パンチョスが歌っているのはわかった。シン・ウナモール、Without a love と繰り返し歌っていた。

(2)「常連たち」へと続く



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