見出し画像

仕方ないと諦めるより、代わりの何かで補う方が建設的

過去の事を振り返っても仕方ないのに、そこにどうしても拘ってしまって抜け出せないことがあります。何回誰に話しても解決しないことは知っています。何故ならその事柄に関わった人や物ではないですし、過ぎてしまったことは取り返しがつかないので。ただ、その代わりになることを別の何かで補うのは可能なら、出来ればそうしたいなと思うことってあります。

抽象的すぎて理解しづらいかもしれないですが、例をあげるとすれば、私の元パートナーの妹さんは昔クリスマスに買ってほしくて貰えなかったオモチャを大人になってからサンタさん(確か旦那さんだったと思います)に貰ってました。大人になったからそのオモチャではきっと遊ばないけれど、それで心の何かを埋めたかったのだと思います。他にも、どうしても行きたかった場所に前パートナーが一緒に行ってくれなくて、それを今パートナーは楽しんで一緒に行ける人だからと補う人(補うは言い方が悪いかもしれないですが)もいました。もちろん「その時」「その人」が与えてくれるのが一番ですし、もし与えてほしかった人にまた会えるチャンスがあってそのことを話せるなら別の形でも与えてもらうのがベストなのでしょうが、そう出来ないケースも多いので、同じことを別の誰かにしてもらって心を落ち着かせるって大切なのかもなって思います。

そんな事を忘れてしまえ、拘るな、期待するなと他人が言うのは簡単ですが、逆に言えばその何かを与えられるだけでわだかまっていたものがとけて心が安定するなら、案外諦めて心の安定をはかるより余程簡単な気がします。

先日、あるTV番組で人間は「覚えていてね」というより「忘れてね」と言った方が心に残りやすいと言っていました。また、何か傷になったことを(例として失恋をあげていました)話さずにいるより、沢山話して悲しい辛いと言った方がクヨクヨしてる事に飽きるし、自分的に整理も出来てさっさと忘れられるとも言っていました。私なりな解釈にはなりますが、結局与えられなかったものに関しても、そんなことをいつまでも言ってないで諦めろと周りが言うよりも、本人がそのことを沢山話したり発信して、出来れば誰かに(出来なかったら自分ででも)そのものを別の手段でも与えてもらってしまった方が早いんじゃないでしょうか。

モノや場所で例えましたが、感情や言葉も一緒だと思います。小さな頃家庭で否定され続けたとか、過去にクラスメイトから無視されたとか、パートナーから酷い言葉を言われたことをトラウマに持ってる人は少なくないと思いますが、それらもクヨクヨ悩んでも仕方ないから忘れようって感情は逆に思い出してしまうこと多いように感じます。専門家ではないので確定的な事は言えませんが、カウンセラーさんや心療内科さんの医師がお話を傾聴するのも、そのことを話してどこかに問題を見つける必要があるからの他に吐き出すことでそれが本人の中で整理されたり、話すうちに自分の中で何かの発見になったり、もしくは何回も同じこと話すうちに、話してる内容にクヨクヨすることに飽きられるように出来てるからなのかと。

少しお話は脱線しましたが、どんなことであっても「過去は変えられないから」「話しても仕方ないから」って思っていても心にわだかまることがあるなら、話すとか書くとかとにかく発信して自分から外に出して、拘ってる自分も肯定して、しかもそれを誰かや自分で補っていくことって大切なんじゃないかと思っています。

自分に思ったと同時に、何か愚痴吐きたいとか相談したいと思ってる方々に、前は「話すのが辛いなら聞かないけど」等と言っていましたが、そもそも口を開く時点で自分に話そうと頭では思ってくれてる訳ですし、どんなにまとまらなくても、話したところで自分には解決のしようもないことであっても、吐き出す行為自体が気持ちの清算の何かの役に立つならどんどん吐き出して欲しいと思うようになりました。

拘っても、仕方ないこと。頭ではちゃんとわかってるのにって思う事は、私の中では結構あります。例えば約束、交わされた言葉、もう会うことが出来ない人、渡すはず(貰うはず)だったモノ、過ごす時間、行くはずだった場所、等、過ぎてしまったからもう二度と叶わないけれど…それを忘れよう忘れようってしてるのは逆効果だと知ったので、書き出すなり話すなりしてさっさと心に折り合いをつけようと思います。クヨクヨしてる自分に飽きたいですし、それにもしかしたら口に出してたら案外別の場所やモノや事柄や人や自分の行いで充電出来るようになるかもしれないですから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?