その辺で通行人を撮ればストリートフォトグラフィなのか?
疑問に思う
最近、スマートフォンやカメラの普及に伴い、
街中で気軽に写真を撮影する
ストリートフォトグラフィを趣味とする人が増えている。
自分もそのうちの1人だ。
ただ、ストリートフォトグラフィが具体的にどういう写真を指すのかは
人によって様々だ。
最近Youtubeでソレを主題とした動画をみていて、
自分が思うものとかけ離れているように感じたので、
己への戒めという意味も込めて、少し思考を整理してみる。
1. 何を伝えたいのかわからない写真
ストリートフォトグラフィでは、被写体を選ぶ理由や撮影の意図が重要だが、
それが感じられない写真が増えている。
多くの写真が偶然の一瞬やその場の雰囲気を切り取ってはいるが、
結局何を伝えたいのかが曖昧なものも多い。
視覚的な情報以上のメッセージがない写真は一瞬で通り過ぎてしまい、
印象が薄いまま終わることが少なくない。
「なぜこの瞬間を切り取ったのか」という問いに対する答えが、
ただ適当に通行人を撮るだけでは表現しきれていないと感じる。
そこで構図や画像編集などの技術を駆使して、
より「意図を伝えられるようにする努力」が必要だと思う。
2. 見る側の「鑑賞力」も問われる
ストリートフォトグラフィを鑑賞する際には、ある程度の鑑賞力も必要だ。
写真を通して作家の意図を理解し、背景にある物語を汲み取るには、
見る側にも一定の経験や感受性が求められる。
それがないと何が良いのか、何がすごいのかもわからない。
ただし、写真の良し悪しは主観的なものであり、
共感できる作品や感動する瞬間は人それぞれ異なる。
誰かにとって「悪い写真」は、誰かにとっての「良い写真」だろう。
鑑賞する力を養い視点を増やすことで、より写真の魅力を感じられるはずだ。
3. 価値が薄れている可能性
(自分も含めて)ストリートフォトグラファーが増え続けている現状にも触れたい。
新しい写真家が多く登場すること自体は歓迎されるべきだが、
同時に作品の質や深みが薄れ、
通行人写真や無意味なスナップショットが増えているようにも感じる。
オススメの機材、構図、ロケーションなどの紹介も多くなったように感じる。
勉強するのはとても良いことだ。
だがその先の「自分で考える」方がもっと大事だ。
自分で考えて撮れない
人に言われた通りのテンプレートしか撮れないのなら
自分で撮らなくて良くないかと思う。
どうせその画は他の誰かが撮っているのだから。
ストリートフォトグラフィが持つ本来の価値を保つためには、
「なぜ撮るのか」を問い直し、
自己の表現を確立することが今後さらに重要になると思う。
戒め
ただ街を歩く通行人を撮るだけでは、
必ずしもストリートフォトグラフィと呼べないと思う。
リアルな瞬間や街の一コマを切り取る以上、
そこに込められたメッセージや意図が重要だ。
ストリートフォトグラフィに必要なのは、
単に「撮る」先にあるもの。
「自分の意図、視点を見せる技術」だと思う。
自分で撮った写真を見返していても
なぜ撮ったかわからないような写真が多くあるので気をつけたい。