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MCEI Review:コロナ後社会を考える

新型コロナの影響で自粛されていた定例会も6月から再開。
既に7月の会も終わっていますが・・、大阪での学び直しのまとめメモ。
6月は、大阪ガス エネルギー・文化研究所 顧問の池永寛明さんから『コロナ後社会を考える』を伺った。
新型コロナの影響によって、これまでで一番考察する時間があったという池永さんのお話は、ご自身の持論に基づくもので、単にコロナ禍でデジタル化が加速するような話とは一線を画し衝撃的だった。

堺屋グラフが表す失われた30年の真実

講演の中で、池永さんがある経営者の方から見せてもらったという堺屋太一さんのメモが紹介され、これがすごかった。
そこには10年周期に浮き沈みされるグラフが書かれ、コメントとして「1990年が日本史のなかで頂点」と書かれている。

なるほどそういうことかと、私は衝撃を受けた。
人間という潤滑油を挟み、信頼と曖昧さの中で一極集中というシナリオで日本経済は発展。それは90年代に頂点を極めた。
平成から令和になっても、今でも昭和やバブルの話が持ち上がるのは、<90年代>が戦後日本にとっての理想郷だったということか。

ビジネスの面でも、出る杭は打たれ、元の土俵へと引き戻される。応用力のあるサービスもいつしかガラパゴス化する。大きな成功が前提にあり、小さな成功に積み重ねが評価されない。などなど、思い当たることが多い。

池永さんに示してもらった、日本は90年代を理想郷として作り上げたという考えにいろいろな背景が交錯し、私は、今回のコロナの変化は、大変なことではあるが、これは大きな機会ととらえようと強く思うことができた。

「災」と「禍」

もう1点、講演の中で、池永さんは『コロナ禍』という言葉ができたことが象徴的だと述べている。

コロナは<災い>ではなく<禍い>。<災い>と<禍い>には、元に戻るか、戻らないかの違いがあるという。
今年の梅雨は、全国各地で大雨による災害が発生しているが、風水害を「災害」と書けるのは時間はかかるにしても復興・復旧を目指すことができるからだ。なんとか、努力と工夫によって元に戻すことができる。

一方、一連のコロナによる動向を「コロナ禍」と書くのは、元の状態には戻らないと考えている証拠なのだという。
テレワーク、家事の分業、地元への還流、寄付への取り組みなど、今まで、やろうと思っていてもできなかったことが、急に具体化したのは、我々が元には戻らないと覚悟を決めた現れなのではないだろうか。

つまり、<90年代の理想郷>には戻らないと認識し、実際に新しい「コロナ後社会」に足を進めはじめたということだと思う。

コロナ後社会は「二項対立を超える」

池永さんがあげたキーワードはいくつかあるが、私は、コロナ後社会は「二項対立を超える」という内容を大事にしていきたい。

デジタルトランスフォーメーションと叫ばれる昨今に、様々なものがバーチャル化し、オンライン化している。だから、コロナ禍はリアルではなくデジタル社会だ!、と思ってはいけない。
テレワークが常態化し、家庭時間を増えるので、地方への暮らしを増やし、地方を活性化させようということでもない。
もちろん、みんな横並びで、人間関係を大事にし、互いに忖度しながら進んでいく昭和型のスタイルということでもない。何も考えず、昭和型のすべてを否定することも間違っている。

二項対立を超えるとは、「Aか?Bか?」という比較や綱引きであり方を問うのではなく、<どちらでもよい>を実践していくことだ。

私は、社会が二項対立を超えることで、コロナ禍には<どちらでもよい>が積み重なり、日本らしい多様性が生まれると考えている。
それは、90年代までのバブルやビッグビジネスのようにはならないかもしれないが、1つ1が、卓越した機能性と洗練された価値を持ち、輝きを放っていると思う。
そして、日本の昔から続く精神性を背景にもてば、新しい日本の総合力として見えてくるのだと思う。

池永さんは、日本人は掛け算が苦手とおっしゃっていたが
 日本のチカラ=多様性×機能性×洗練×精神性
となって表れて欲しいと願う。

池永さんの話を聞き終わり、2020年代は時間をかけて、90年代と距離を置く時代になるのではないかと感じた。そして、不安も多いが、なぜかワクワクした気持ちになれた。

池永さんのnoteページをリンクに:


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