【小説】始皇帝の支配力 序章
第一章(序章)「見覚えのないファイル」
金曜日の品川のビル群は、クリスマスイブの夜でも変わらず冷たい蛍光灯に照らされていた。18階にあるガラス張りのオフィスでは、暖房が効きすぎて空気が妙に乾燥している。麻生久美子は、Excelのマクロを修正する手を止め、ため息をついた。午後9時を過ぎていたが、オフィスには彼女以外に誰もいない。
「これだからプロジェクトリーダーは嫌だって言ったのに……」
心の中で毒づきながら、書類の山を目の前に見つめる。外を見ると、雪が舞い始めているのが見えた。東京のクリスマスイブに雪が降るなんて、そうそうあることではない。
机の上には、社内回覧用の資料と、年末の監査で使用するための書類が散乱していた。その中に、見覚えのない古びたファイルが混じっていることに気づく。
「何だろう、これ?」
手に取ると、淡いカビ臭さとともに薄い茶色の紙が現れた。その上には、色褪せた中国の地図らしきものとその説明が記されている。
「始皇帝の……遺物?」
手書きの文字はところどころ読めないが、「発掘地:河北省」「秦朝の文物」「認可なし」という単語が目に入る。さらに、挟み込まれていた写真には奇妙な模様が刻まれた土器の破片が映っていた。それを見た瞬間、久美子の背筋に冷たいものが走る。
「誰がこんなものを?」
ファイルを閉じて元に戻そうとしたが、何かが引っかかって手が止まった。普段なら気にもしない些細な違和感。だがその瞬間、スマートフォンが震えた。
「もしもし」
「もしもし久美子? 今どこにいるの?」
彼氏の相馬慎也からだった。彼は声に少しだけ焦りを含ませている。
「オフィス。もうちょっとで終わるけど、何かあったの?」
「いや、ただ、外は雪がひどくなりそうだって聞いたから……迎えに行こうか?」
彼の穏やかな声に一瞬ほっとしたものの、何となく胸の奥に引っかかるものが残った。
「ありがとう。でもそんなに急がなくてもいいよ。まだちょっとかかりそうだから。」
電話を切ったあと、久美子は再びファイルを見つめた。それはまるで、彼女に何かを訴えかけているようだった。
久美子がオフィスを出たのは午後10時過ぎ。外はすっかり銀世界となり、足元に積もった雪が音を吸い込むように静けさを漂わせていた。相馬が車を路肩に停めて待っていた。
「寒かったでしょ? ありがとう。」
助手席に乗り込むと、彼は穏やかな微笑みを浮かべて「メリークリスマス」と言った。その言葉に何の違和感もなく、久美子は一瞬だけ日常の温かさを取り戻したような気がした。
しかし、その背後で、久美子のカバンに入ったままのファイルが、小さく震えるような音を立てたことに、彼女はまだ気づいていなかった。
車の中は暖房が効いていて、フロントガラス越しに舞い降りる雪がゆっくりと流れていた。相馬はハンドルを握りながら久美子に視線を向けることなく、穏やかな声で話しかけた。
「イブの夜にオフィスなんて、よっぽど仕事熱心なんだね。」
「笑えない冗談だよ。」久美子は肩をすくめる。「大して意味のある仕事でもないんだけどね。ただ、片づけておかないと自分が落ち着かないだけ。」
「几帳面なところは相変わらずだ。」
車内ラジオから古いジャズが流れてきた。チェット・ベイカーの歌声が、雪に閉じ込められた都会の夜と妙に合っていた。久美子は窓の外に目を向け、街の様子をぼんやりと眺めた。静寂と喧騒が交じり合う、東京らしい夜だった。
「ねえ、久美子。」相馬が唐突に言った。「今、何か気になっていることがあるんじゃない?」
「え?」
「顔に出てるよ。何か考えている顔だ。」
久美子は一瞬だけ迷ったが、鞄の中に入れたままの古びたファイルを思い出した。そして、ため息をついた。
「ちょっと変なものを見つけたの。残業中にね。誰のものかも分からないんだけど、なんだか妙な気がして……。」
「妙な気?」
「うまく説明できないんだけど、古い書類と写真があって。中国の秦朝時代の土器の破片の写真が入ってたの。」
相馬は静かに聞いていた。彼の横顔はいつも通り穏やかだったが、どこか無表情にも見えた。
「土器の破片? それがどうしたの?」
「分からない。でも、何となく引っかかるの。変な予感っていうのかな。」
相馬は小さく笑った。
「まるで探偵の物語だな。でも大丈夫だよ、久美子はただ仕事で疲れてるだけだ。」
彼の声は優しかったが、その言葉には少しばかり現実に戻される冷たさも混じっていた。久美子はそのまま黙り込んで、雪の降る景色に目を戻した。
自宅に戻ったのは11時近くだった。部屋に入るなり、久美子は鞄をソファに放り投げ、台所の棚からウィスキーを取り出した。グラスに注いで一口飲み、少しだけ体の力が抜ける。
「ああ、もうクリスマスイブなんてどうでもいい。」
ソファに深く座り込み、ぼんやりと天井を見つめる。部屋の中は、暖房の音だけが静かに響いていた。
ふと、鞄の中からファイルが顔を出していることに気づいた。まるで呼びかけるかのように、そこにひっそりと存在している。
「なんでこんなものが私のところに?」
久美子は恐る恐るファイルを開いた。先ほど見た土器の写真と中国の地図。それだけではない。最後のページに、新潟県のある村の名前が書かれていた。
「……新潟?」
その瞬間、スマートフォンが再び震えた。久美子はびくっとして画面を見た。番号は表示されていない。「不明」とだけ書かれている。
「こんな時間に、誰?」
迷いながらも通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの男の声が聞こえた。「…………あなたが手にしたものは、戻すべきものだ。」
「え?」
「すぐに新潟へ行け。あの場所へ──行かなければならない。」
男の声はそれだけを告げると、途切れるように電話は切れた。久美子は一瞬、息を飲んでスマホを見つめた。背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「なんなの?」
部屋の中の空気がさっきまでとはまるで違っている。どこか遠くから雪が降る音が聞こえてくるようだった。
その夜、久美子は夢を見た。雪が深々と降り積もる古代の街。見渡す限りの廃墟と、巨大な石の壁。彼女はそこに立っていて、目の前には一枚の割れた土器が埋まっている。そして、聞き覚えのない言語で何かが囁かれ続けている。
──戻せ、戻せ──
目が覚めたのは午前4時。窓の外ではまだ雪が降り続けていた。久美子はベッドの中で、自分の手が震えていることに気づいた。
新潟か──。
誰かが、自分をそこへ導こうとしている。そしてその何者かは、この世界の論理から外れた場所に存在している。
久美子は再びファイルを取り出し、あの写真を見てみた。土器の破片に刻まれた奇妙な模様が、まるで自分の脳裏に焼き付けられているかのようだった。
「行くしかないのかな。」
雪の降り止まぬ東京の夜が、静かに彼女の決断を見届けていた。