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「半分、青い。」の備忘録

ひさしぶりに朝ドラを最初から最後まで見切った。
「半分、青い。」というタイトルがどんぴしゃすぎて今回は見ようと思ったのだけど、いろいろ考えることができて、充実した半年だった。たのしかったなあ。

考えたこと、感想のようななにかを備忘録としてつらつら書きます。



気づけばずっと、わたしは律に感情移入しすぎてつらかった。感情移入というか、わたしが律そのものなんだと錯覚さえしていたと思う。なにがが起こったときに律が発する言葉や、行動の選択が、わたしの選ぶそれと同じだ、と思った。

わたしは昔から空気を読みすぎて、自分の気持ちがわからなかった。周りを気にしすぎて、意見を求められても自分の意思がどこにあるのかわからなかった。どんどん感情が薄くなって、「本当に自分が思っていること」なんてまぼろしのような気がした。だからこそ、「いい人」よりも「正直で人間味のある人」に惹かれる。ネガティブな感情やちょっと意地悪な気持ちが全くない人間はいない。

律もそうだったんじゃないかと思う。律が自分の意見を言えるのは、いつだって鈴愛の前だけだった。より子さんとうまくいかなかったのは、より子さんも律も、お互いに本音を言えない関係から抜け出せなかったからだ。一度その沼にはまると、心が苦しくなって自力では抜け出せない。律が笑えないことが、自分が笑えない状況とリンクしてしんどかった。

律、おねがい、笑って。

話が進むたびにこの願いが強くなる。律が自分の力で、考えで、なんらかの答えを出して少しずつでも進んでいくことを真剣に願っていた。たぶんそれは、わたしが笑ったり幸せになることとイコールになるから。律を通して、自分の幸せを祈っていたのだと思う。

終盤(9月に入ってから)、律が「おれは鈴愛と違って、こんなことがしたい、がなかった。でも、これはいやだ、はあった。おれはこんなことするために生まれてきたんやないと思った。」と言っていた。

鈴愛が夢組で、律が叶え組なんだろうな、ということはうすうす感じていた。自分が叶え組だから、こんなに律に共感してしまうんだろうな、ということも。(夢組・叶え組の捉え方は桜林直子さんのnoteをご覧ください)

鈴愛はできないことをはっきりできないと言う。そこには、見栄もプライドもない。律とはちがう。わたしともちがう。ありがとうもごめんなさいも、いつだって本心だ。どれだけぶっ飛んだことを言っていても、嘘がないのがわかるから、いつだって信じられる。

そんな鈴愛だからこそ、鈴愛の前だけは、律は律のままでいれた。空気を読む必要も、気を使う必要もなく、自分の気持ちとまっすぐ向き合えた。律に鈴愛がいてよかった。わたしにも鈴愛がいてほしかったけれど、律が笑っていてくれるなら、いまはそれでいいや。



怒りも悲しみも恥も、わたしなら他人に話すのを躊躇する気持ちを、鈴愛は誰にでも話した。誰の前でも、どんなときでも、鈴愛は鈴愛だった。突拍子のないことを言ったり、周りを巻き込んだり。いつも正直だった。思ったことを思ったままに言っていた。年齢も立場も関係なく、落ち込むときにはとことん落ち込んだ。大人になって、母になっても、まるで子供のようにすべてをシャットアウトして落ち込んだ。

負の感情は、外に出してしまったほうが早く消える。いつまでも自分の中からネガティブを吐き出せないわたしは、同じ場所でぐるぐるしているだけだ。落ち込むべきときに落ち込まず、「大丈夫だよ」なんて強がっていると、そのぶん立ち直りが遅くなる。いつまでもずるずる引きずって終わりが来ない。

どんなときも自分のことしか考えない鈴愛は強い。たしかに鈴愛は周りにたくさん迷惑をかけて、振り回して、助けられて生きていた。でも、そのぶん鈴愛もたくさんの人を許して生きてきた。

大人になって、親になって、自分以外のことを考えなきゃいけない立場になっても、自分のことだけを考えてもいいし、むしろそうすべきなんだと思った。自分が自分をいちばん好きでいてあげないと、だれのことも好きになれない。許してあげられない。

自分以外の人のことは、どうしたって一部しか知れない。どんなに近しい人であっても、どんなに語り合った人でも、24時間365日いっしょにいるわけではないのだから。家族だからといって、親友だからといって、夫婦だからといって、価値観を合わせる必要はない。

でも、自分であることはやめられない。やめられないから、自分でいるしかない。だから起こることすべてを受け入れていきたい。そのときの感情をまっすぐ見て、ごまかしたり隠したりせず、表現できるようになりたい。そのためには、鈴愛のわがままさが必要なんだと思う。



物語のいいところは、終わりがきても終わらないところだ。秋風先生が言っていた。「人には、想像力があります。」
わたしたちは、半分、青い。の続きを勝手に想像していいんだ。

10年後にはかんちゃんがオリンピックの舞台に立っているかもしれない。スケートリンクで堂々とジャンプをするかんちゃんを、つばさくんがカメラ越しに追いかけている。きっとそうだ。うれしいな。

たぶん正人は、律と鈴愛を見てにやにやしてるんだ。自分だけがふたりの素直な言葉を聞いていて、「言わないで」といわれて、それを思い出してにやにやしてるんだ。ずるいなあ。

三人で飲んでいるときに、律と鈴愛の議論が白熱して、笑っちゃいけない場面なのに正人はきっと笑っちゃう。「なんでわらった?!」「なにがおかしい」とかにらまれて、「ふふっ。なにも。えだまめ、おいしいね」とか言ってると思う。ずるいなあ。わたしも秘密を守っているふりしてにやにやしたい。

想像力は人間力なのかもしれないな。生きていくために必要な力だ。もっと、ポジティブな想像をしよう。「もうダメだと思うか、いや、行ける、先はきっと明るい、と思うかはその人次第」
なんでもかんでも「先は明るい」と思うのは危険な気もするけれど、信じ込む無鉄砲さがあれば、見えない誰かが前にひっぱってくれるんじゃないか、誰かが後ろから押してくれるんじゃないか、そんな映像が頭に浮かんだ。



半分、青い。には、現実の無力さがあった。つらいことも悲しいことも、割り切れない気持ちもいっぱい抱えたまま、それでも生きていくしかないのだ。(もちろんドラマならではの展開もあったけれど、それはフィクションの醍醐味だと思う)

夢は、叶わないかもしれない。でも、それでもいいと言ってほしい。失敗しても、あきらめてもいいのだと。


どんな出来事も都合よく解釈していこう。想像力が試される。


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