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わたしは「形無し」だった。

わたしは形無しだった。

その事実にうすうす気づいていながらも、気づかないふりをしてきた、という話。

ひとは見たくないものは見ないものだ。

「守・破・離」という言葉がある。
これは、千利休の『利休道歌』に「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」からくるものだそう。

つまり、師匠から教わった型を徹底的に「守る」。
そして、師匠の型と他流派の型などを研究し既存の型を「破る」。
それができてはじめて、既存の型から「離れ」て自在になれる。
というような意味だそうだ。

また「型破りと形無し」という言葉もある。

いい意味で常識に捉われない、風変わりな様を表すのが「型破り」。基本の型を会得しないままに個性や独創性をもとめるのは「形無し」。

これは18代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」が有名で、禅僧である無着成恭が言った言葉でもあるらしい。

また、最近読んだ、アートやデザインに関する本でも「創造のまえにまずは模倣」とか「とっぴなデザインよりまずは普通をさがそう」などとあった。

自分のオリジナリティを発揮してやろうとか、みんなが驚くような作品やアイデアを・・なんて思っても、そんなもの凡人からは出てきやしない。

天才といわれる人だって、数多くの努力や失敗をしている。氷山の一角しかみていないだけかも。

私も「守・破・離」や「形無し」という言葉は知っていた。
だけど、まさか自分が「形無し」に陥っていただなんて。気づかずにいた。



ひとつ目のブログを作り始めたのは、2020年5月。
その頃の私は、よくある作法にのっとって書いたら、没個性的な記事になってしまうなんて思っていた。オリジナリティあふれるブログを作ってやろうと意気込んでいた。

自我があれこれ変わったことをしろと囁いていた。昔から厄介な隣人のような存在の自我。

無知だった私は、自我の囁きの赴くままに走り出した。そもそもスタート地点が間違っているうえに、目的地も地図もないまま。

当たり前だか、その先は、壁、壁、壁…。

それは追い風にむかって進んでいるようなもので、抵抗を感じながら書き進めるという感覚があった。
(この感覚は正しかった)

もちろん、道中で学んだことはあったけれど。(遠回りした感じはある) 

知っていることと、自分が陥っていると気づき認めることにはある種の壁があるのだろう。

いつまでもふわふわしてるのはやめて、地道に、謙虚に、「型」を身につけたいものだ。


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