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「卒業式は、自分の言葉で感動したい」という強がり

この時期になると、聞こえてくるのは、卒業の歌。

それを聞くと、なんだか身構えてしまう。
「私を、泣かせにきてる?」
と思ってしまうからだ。

そして、「泣くまい」と思う。

”校舎、笑い声、運動会、桜、旅立つ、ありがとう・・・”
「ありきたりなワードで、泣かせにくるな。」と思う。

「この子と私の日々の何が、あなたにわかるんですか?」という苛立ちなのか?

母としての矜持なのか、ただの強がりなのか、天邪鬼なだけか?
それは、わからない。

私は、自分の言葉で、感動したいのだ。


この春、長男は小学校を、次男は子ども園を卒業する。
私は、卒業式が嫌いだ。

子どもが5人。今まで、卒園式を3回経験した。

いつも心がぐわんぐわんと揺り動かされ、涙と感謝の言葉を飲み込んだまま終わってしまう。

時々、素直に笑って、素直に泣いて、そんな友人がうらやましいと思うこともある。

私は、隣で感動して泣いている友人の気配を感じながら、前方の我が子を見つめ、よくわからないグルグルをお腹の中に抱える。

そもそも卒業式の目的ってなんなのだろう?
区切りをつける儀式?通過儀礼?
気持ちを切り替えて次へ進むためにある?

では、なぜ涙がついてまわるのだろう?
子どもの成長に感動するから?
いままでの子育ての苦労や思い出が走馬灯のように思い出されるから?
もう、この場所でこのメンバーで過ごすことはないという現実を突きつけられるから?
変化が怖い?
希望と不安?
うれし涙?悲し涙?なに?
どうして人は泣く?どういうときに人は泣く?

・・・どういう感情で卒業式を見守ればいいのか、分からないのだ。

勘違いされては困るので言っておくと、私は鉄仮面でもサイコパスでもない。
むしろその逆で、幼い頃から感受性が豊かで、泣き虫だった。

いままで、ママ友とのやりとりのなかで「バスタオル持っていこう」などど盛り上がり「さみしいね〜」と言い合っていた。

そうか、母親にとって、卒業式の本質はたぶん、さみしさなんだ。
我が子が少しずつ成長して離れていく、さみしさ。

成長がうれしい、ほこらしいなんてのは、建前で、ほんとはさみしいんだ。
損失回避に人間は強く反応するように、失うのは、つらい。
可愛い小学生の息子が、中学生の息子になってゆく。
さみしいのか。
そうか。

卒業式は、さみしいから、嫌い、なんだ。

書いていて、答えが出た。

だから、さみしさを増長させるような歌詞の曲が嫌いだし、わざわざ泣かそうとしてくれなくたって、十分さみしくて泣いちゃいそうだから、やめてくれ。ってことなのかも。

なんだ、私ってやっぱり素直だったじゃん。

卒業の歌が嫌いで、「私は自分の言葉で感動したい」と崇高な理由をあげてみたけれど、結局は、さみしさと強がりだったのかもしれない。

母親、この不可解な存在。


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