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【講義レポート】ブライアンウィルソンが1967年に壊れるまでの過程と「ペット・サウンズ」

 私の大学時代に書いたレポートを久々に読むと、中々面白く書けているものが多かった。今回は大学4年生時に芸術系の講義にて最高評価Sを獲得できたレポートを、多少の追記と数点の補足画像を添えてここに再掲したい。

 人生レベルでハマったバンドであるため、当時の私は3000字を超える非常に力の入ったレポートを書いている。だいぶ長いがざっくりとしたバンド史としてまあまあ面白く書けていると思うので、最後まで読んで頂けたら何よりも嬉しい。


映像身体学特講2

「本講で取り扱ったような精神病理と芸術との関連性のあるケースについて調べ述べなさい」


ブライアンウィルソンが1967年に壊れるまでの過程と「ペット・サウンズ」


 ロック史において歴史はBB(Before Beatles)とAB(After Beatles)、そして起源1964年とに分類が成される。ビートルズは音楽そのものの劇的な進化を促したのみではなく社会や文化、そして若者の思想そのものまでもを変化させてしまった。

 そうした時代の激流に翻弄され続けたグループがいる。ザ・ビーチボーイズである。

 ビーチボーイズは1961年に結成、1962年にデビューしたアメリカ、特にカリフォルニアを代表するバンドである。人気の理由は当時大流行したサーフィンとホットロッドをテーマにした明るいパーティサウンドと、卓越したコーラスの技術にあった。コーラスの構造やルート音をたどらないベースなど音楽的に非常に高度なことを成し遂げているのに今一つ過小評価されているのはその曲調と歌詞のポップさのせいだろう。

ビーチボーイズは兄弟と従弟と友人とで結成されたバンドであり、メンバーはウィルソン家の長男ブライアンと次男デニスと三男カール、従弟のマイク・ラブ、そして友人のアル・ジャーディンの5人である(上記写真では左からデニス、アル以前のメンバーであるデイヴィッド・マークス、カール、マイク、ブライアン)。リーダーはブライアンが務め、作曲から編曲、プロデュースまでを引き受けた。ブライアンのプロデュース能力と音楽的センスによりバンドはアメリカで1番のグループへと成長するが、1967年にブライアンは精神が崩壊、バンドは低迷期を迎えてしまう。

 ライバルであったビートルズも愛したビーチボーイズ。ブライアンウィルソンは何故そこで壊れてしまったのか?

 長男ブライアンは内気な性格で母が買ってきたジャズのレコードをずっと聞いている音楽が大好きな少年であった。レコードを聞き込んでいる内にジャズコーラスのハーモニー構成を飲み込み、そのうち兄弟でコーラスを練習することを楽しむようになる。

 しかし父のことは嫌いだった。ミュージシャンに挫折した父は長男であるブライアンにほとんど虐待と言える教育を幼少期から行い、片耳の聴力が低下する程の暴力がそこで浴びせられた。この頃に受けた傷や精神的トラウマがブライアンを生涯に渡り苦しめることになる。

 ギターを習得したウィルソン兄弟は従弟と友人を呼んでバンド活動を始める。サーフィンにまつわるオリジナル曲作成のきっかけはサーフィンが趣味だった次男デニスの提案によるものであった。父のマレーはそれをマネジメントし、友人のレコードレーベルであるCANDIXから1961年11月デビューシングル「サーフィン」を発売。このレコードにて、元々あった名前が本人たちに聞かされぬまま「ザ・ビーチボーイズ」という名前に変えられていた。父マレーとレコード会社とが、デビュー曲を出すにあたり独断でつけた名前であった。このシングル盤はデビューシングルにしては大きなローカルヒットとなり、父の広報が功を奏しビーチボーイズはアメリカ最大手キャピトルレコードとの契約を果たす。

 1962年10月にデビューシングルとアルバム「サーフィンサファリ」を発売し、1963年春に「サーフィンUSA」を全米に大ヒットさせる。そしてブライアンの音楽的才能は時間が経つ度に開花していった。ビーチボーイズはサーフィンブームを鷲掴みにしたのとその音楽性の高さ、あとルックスの良さとでたちまちアメリカ全土で大人気バンド、アイドルとしての成功を手にする。

 バンドとして順風満帆だった1964年2月、ブライアンは見ていたテレビの内容に恐怖を覚える程の衝撃を受ける。ビートルズがアメリカの番組に初めて出演したエド・サリヴァンショー、ビートルズによるアメリカ侵略が幕を切った瞬間であった。ブライアンは初めてビートルズを見たそのショックから、直後に発売予定であるアルバム音源のマスターテープを捨てようとしたと言われる。それ程に彼にとって、スーツを着て3人で歌うビートルズの姿とその楽曲の完成度の高さは衝撃的かつ恐怖心を抱かせるものであった。同時期にブライアンは尊敬するミュージシャン兼音楽プロデューサーであるフィル・スペクターに(フィルの嫉妬心からか)そっぽを向かれ、あろうことか自信作であった提供曲にケチをつけられてしまう。このこともブライアンを傷つけた。

 1964年末、あまりの多忙とストレスからブライアンはツアーに向かう飛行機内で感情の抑制がきかなくなり、ノイローゼに襲われてしまう。家に帰りたいと機内で泣き喚き過呼吸になったブライアンは直ちにカリフォルニアに戻り、母の下で泣きに泣いた。それからツアーに参加することはなくなったが、この頃からブライアンは時折パニック障害に悩まされるようになった。彼にとっての救いは母と妻のマリリンだけだった。

 1965年、バンドではブライアンとその他メンバーとで作曲とツアー周りとの分業体制が敷かれていた。大麻を覚えたブライアンは瞑想に入るようになり、より高度で難解なハーモニーを作るようになった。その頃ビーチボーイズはアメリカは勿論、イギリスでも確固たるセールスの基盤を築き上げていた。シングル主体の時代にもかかわらずアルバムも大ヒットするのは当時ビートルズとフォーシーズンズ、モータウン勢、そしてビーチボーイズくらいであったという。

 そんな頃に出会ったのがビートルズの最新アルバムである「ラバー・ソウル」であった。革新的なベースライン、複雑なコードの多用、シタールやコーラスなどを駆使した独特の世界観などブライアンはそのアルバムの全てに感動した。それを聞いた後ではもうそれまでの様なお気楽なポップスは作れないと思った。そして、このアルバムを超えるクオリティーの作品を創りあげなければいけないという目標、そしてプレッシャーがブライアンの肩に重くのしかかる。

 ロサンゼルス中から選りすぐりのスタジオミュージシャンを呼び集め、レコーディングが開始された。詩作はブライアンの心情が吐露した内容になり、曲調もそれまでのサーフィンやホットロッドといったものを全く受け付けない、芸術的で内省的な美を追求する曲調に変化した。ビーチボーイズの他のメンバーがツアーから戻る頃には、メンバーは完成されたトラックにコーラスとボーカルを吹き込むだけだった。弟たちは兄の才能に驚嘆した。が従弟のマイク・ラブが求めていたのは今まで通りのサーフィン・ホットロッド、サンシャイン・ポップスだった。彼は未知のサウンドを聞かされ戸惑い、これを真っ向から否定した。「誰がこんなレコードを聴くんだ?犬か?」。

 そうして「ペット・サウンズ」と名付けられたアルバムはキャピタルレコードから発売されたものの、聴衆、そしてレコード会社までもがそのサウンドを理解できなかった。売れ行きの不振に焦ったレコード会社はすぐにビーチボーイズのベスト盤を発売、そちらの方がアメリカ国内でヒットしてしまった。この事実にブライアンはまた大きな傷を背負ってしまう。また(ペットサウンズに大きく影響を受けた)翌年に発表されたビートルズの「サージェントペパーズ~」が世間から大きく評価される様を目の当たりにしてしまい、また深い傷を背負ってしまうのであった。実際はレノンマッカートニーがペットサウンズに、ブライアンがラバーソウルに受けた衝撃と同じショックを受けていたというのに。

 何故自分だけが評価されないのか、ビートルズには勝てないのか。この頃にはブライアンはLSDを覚え、常時朦朧とし何もしていなくても頭の中に常に音楽が鳴り響いているような状態だった。そして既に「統合失調性感情障害」を患っていた。

 1967年、新アルバムの録音がブライアンの手によって中止。奇行と狂言を繰り返すブライアンはもう誰の手にも負えなくなり、過食で太った彼は20年の長い隠居生活に入る。そんなブライアンを見て父は「もうあいつにいい曲は書けないだろう」と言い放ち、マネージャーの権限を利用して、2000万ドル以上の価値があるとされる楽曲権利を別のレコード会社にたった70万ドルで売り渡してしまった。「あの曲は僕の子どもたちだ、僕はお終いだ」。ブライアンは深い絶望に苦しみ、友人に自身の曲のゴールドディスクを譲ろうとまでした。妻との離婚、そして1983年、麻薬に溺れた次男デニスの死(「宝物を探しに行く」と言い、自家用ヨットから真夜中の海にダイブし溺死した)のショックもあり、彼の復活は67年以降20年以上後の1989年まで待たなくてはならない。

 最初ブライアンが描いたものは(本人はサーフィンをしないにしろ)明るいカラッとした、ベトナム戦争拡大以前の「健康なアメリカ」への賛歌であった。聴衆が求めていたのは眩しいポップスであり、ブライアンもまたそれを形にした。やがてそのレコードはカリフォルニアからアメリカ全土へ、またはアメリカから世界各地へと渡り聴衆はその音を聞いてアメリカに憧れを持った。ブライアンが作っていたのは「アメリカの音」だったのだ。

 しかし1965年頃からの本格的なブリティッシュインベイジョン、またはギターサウンドの変化、そしてベトナム戦争の激化によってそうしたアメリカは過去のものになろうとしていた。しかし人々はブライアンにあの「アメリカの音」を求め続けたのではないか。

 またブライアンが身近に味わったものは父親の虐待、レコード会社のセールス追求のプレッシャー、そしてライブに来て騒ぐだけの聴衆(ティーンネイジャー)などだった。これはアメリカという文化土壌が生み出した負の側面であったかもしれない。

「健康的なポップスを作らされている」という呪縛はブライアンの精神を徐々に蝕み、「ビートルズの対抗馬」として持ち上げられている内に彼の精神は緩やかに壊れはじめた。

 そうしたパブリックイメージからの脱却を図った「ペット・サウンズ」のアルバムは非常に芸術的な価値が高く、現在では歴史的なロックアルバムとして十分な再評価を受けている。

 中でも”I Guess I Just Wasn’t Made For These Times”と言う曲があるのだが、「ものごとが再び動き出すたびに、今度こそうまくいきそうだって気がする。でもほら、必ずどこかでおかしくなっちゃうんだ。ときどき僕は凄く悲しくなる。僕はきっと、間違った時代に生まれたんだな(村上春樹訳)」と、歌詞から当時の脆い精神状態が垣間見えて悲しい。


 ペットサウンズ発表前、ブライアンと妻マリリンは発売直前の新アルバムを2人で聞き、2人で泣いた。

 「最後の曲『キャロライン・ノー』が、遠くに消えていく汽車の音とバナナ(愛犬)の吠える声でエンディングを迎えた時、マリリンと僕は顔を見合わせた。僕たちは二人とも泣いていた。僕が望んだとおりの、美しい感動的なスピリチュアルなアルバムに仕上がっていた。
『あの汽車の背後に僕が感じられる?』
僕が尋ねると、マリリンは言った。
『ええ、でも消えていくわ。』」

 頭の音楽が鳴りやまない病と積み重なるプレッシャーに苦しみながら生み出したサウンドは、ポールマッカートニーが「世界で最も重要なアルバム」と語る程の美しい芸術作品をバッハ以降の音楽史に残した。悲しい程に美しいこのアルバムを私は音楽を愛する全ての人々と共に愛したい。


参考:ペット・サウンズ(2008年2月, ジム・フジーリ 村上春樹訳) 新潮社    



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