【小説】将棋、人類、閉じた宇宙
黒い背景に「しばらくお待ちください」とだけ表示されていた画面が切り替わって、明るくなった。上品な和室に、将棋盤を前にして、スーツを着たふたりの男性が、真剣な顔をして向かい合っている。右側に座っているのは、眼鏡をかけた中年の男性。左側には、少し太り気味な20代の男性。真正面には記録係の若い男の子が正座をして、退屈そうに顔を下に向けていた。
「みなさま、おはようございます。この時間は、東京千駄ヶ谷の将棋協会”霧の間”から、明王戦本選第三局、羽田与志雄二冠対里田広志六段の対局をお届けいたします」と女性の柔らかい声が聞こえてきた。
羽田二冠が扇子を広げて口元を押さえ、「んんっ!」と大きな咳払いをした。
女性の声が続く。
「本日の解説は藤本毅九段、聞き手はわたくし女流棋士の升田が務めさせていただきます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」と藤本九段が言った。
「先生、戦型予想はいかがでしょう」
「そうですね。振り駒で羽田さんが先手を取ったので、ちょっと予想できないですね。羽田さんは振り飛車相手には相振りにすることが多いんですが、後手の里田さんも居飛車、振り飛車、どっちも指せるんで、相手の出方を見ながら戦型を決めるっていう方針になるんじゃないかなあ」
「だとすると、序盤から目が離せない展開になりそうですね」
「ええ。楽しみです」
午前十時ちょうど、記録係が顔を上げた。
「それでは、時間になりましたので、羽田二冠の先手で指していただきます。持ち時間は各1時間、時間を使い切りますと、1手1分以内です。それではよろしくお願いします」
「お願いします」両対局者は将棋盤に額を付けるかのように深く頭を下げた。
「始まりましたね」と升田女流の声が聞こえた。
顔を上げた羽田二冠は右手の指先で駒を掴むと、ぴしゃり、という高い音を立てて、初手を打った。7六歩で角道を開ける。1秒を惜しむかのように後手も即座に二手目を指す。二手目は3四歩で、同じく角道を開いた。
画面が切り替わって、藤本九段と升田女流が座っている解説室を映し出した。解説室は障子が背景になっていて、正面の小高い台に聞き手と解説者が並んで座っている。ふたりの手もとには、タッチパネル式の小さなディスプレイが見やすい角度に傾けられて置いてある。
「改めまして、よろしくお願いします」
「お願いします」解説室のふたりは軽く頭を下げた。
ぴしゃり、という音がまた響いた。画面右下に、対局者の盤の画面がワイプで映っている。
「あ、3手目は5六歩ですね」
「あら、意外だな」と藤本九段があごに手を当てて言った。
「これは、中飛車に振るということでしょうか」
「いや、それはまだわからないですね。この形から矢倉に行ったり、後手から角換わりしたりすることもあるから。でも、この形から後手が飛車を振ったら、中飛車にしますよ、というメッセージというか、合図なんじゃないかな」
また画面が切り替わり、ゲームのような、簡易なコンピュータグラフィックの将棋盤と駒が映し出された。駒の配置は、現在の対局と同じになっている。
「えー、ここで明王盤について少し説明させていただきます」と升田女流。
「明王盤っていうのは、今画面に映っているやつのことね」
「ええ、そのとおりです。これは両対局者の駒の動きをほぼリアルタイムで再現して、駒をこの明王盤の上で、私たちの手もとにあるタッチパネルで操作して対局を検討することができます。また、将棋ソフトも内蔵されていて、最善手をコンピュータがどのように予想しているか表示できたり、現在の局面の形成判断を点数で評価したりできます。本日、使用する将棋ソフトは、今年の将棋ソフトトーナメントで優勝した”利巧”となっております」
「へえ。そんなこともできるの」
「はい、ちょっとやってみましょうか。今の形成判断を……」
升田女流がタッチパネルを触ると、棋譜の記録している画面の右半分の部分だけが切り替わって、
先手 +12 後手 -12
という表示と共に、棒グラフが先手が有利だということを表示している。
「まだ3手目ですから、当たり前と言えば当たり前ですが、ほとんど差はついてませんね」
「まあ、そうだよね。こんなところで優勢劣勢が決まってちゃ、やってられないよ」と藤本九段が冗談めかして言った。
ぴしゃり、という音がして、後手の里田六段が4手目、3三に角を上がった。明王盤のCGも角が動く。すると、将棋ソフト”利巧”の評価も若干変化して、
先手 +28 後手 -28
となった。
それを見た藤本九段が、
「あ、変わった」と少し驚いた様子で言う。
「3三角は、向かい飛車にするということでしょうか」
「そうだね。こうなると後手は向かい飛車にするしかないけど、後手の点数下がっちゃったね」
「ええ。どうもコンピュータは、振り飛車は少し不利というふうに判断するクセみたいなのがあるみたいです」
「へえ。そうなんだ」
「藤本九段は振り飛車党ですが、いかがですか?」
「まあ、飛車が横に1手余計に動いてるぶん、居飛車に比べたら不利と言えば不利なんだろうけど、でも十分に戦えるよ。升田さんは?」
「私は基本的には居飛車ですけど、たまに相手によっては飛車を振りますかね。たぶん10局に1局くらいですけど」
「まあね。あんまり同じ戦型ばっかりだと、飽きちゃう……、”飽きちゃう”なんて言い方するとアレだけど、たまにはほかのやってみようかなって、思うときがあるよね」
先手羽田二冠は飛車を5八に動かした。ほぼノータームで、後手里田六段は飛車を2二に振った。
「相振り飛車になりましたね」
「うん。そうなんだけど……。えっと、このタッチパネルで明王盤の駒、動かせるのかな?」
「あ、できます。どうぞ」
「えっと、次は、先手が玉をどっちに持っていくかっていうのが課題で、昔は飛車を振ったら玉を右に持って行って囲うのが定跡だったんだけど、最近、こういう手が流行ってきてね……」
藤本九段がタッチパネルを操作すると、明王盤の上で先手の玉が4八ではなく6八の方向に動いた。
「ふつうの振り飛車と逆ですね」
「そう。”左穴熊”っていう名前が付いている戦型なんだけど、これだと飛車は振ってはいるものの、感覚としては完全に居飛車だね」
「だとすると、後手はどのように囲うんでしょうか」
「たぶん、後手も同じように穴熊にすると思うよ。こうやって、これからの動きをちょっとやってみますね」
藤本九段はCGの駒を動かしていく。後手6二玉、先手7八玉、後手2二玉、先手7七角、後手8二玉、先手8八玉、後手1二香、先手9二香、後手1一玉、先手9九玉、後手2二銀、先手8八銀、後手7一金。
そこまで動かしたところで手を止めて、
「こんなふうに進行するんじゃないかな。後手のほうはこれで問題ないんだけど、先手としては、右側の金をどっちに持っていくかっていうのが難しいところだね。できれば玉の守りを固めたいところだけど、将来的に角交換が起こった後に、桂馬と香車を守ろうと思ったら、右のほうに展開していったほうがいいかもしれない」
「ということは、まだまだ課題が多い局面ということですか?」
「そうだね」
画面が変わって、両対局者の様子を映し出した。後手の里田六段は首を横に向けて目を閉じている。
「先生は里田六段にはどのような印象をお持ちですか?」
「うん。新進気鋭の若手棋士っていう感じだね。まだ若いのに、20歳くらいだっけ?」
「21歳ですね」
「序盤、中盤、終盤、スキがないというか、とにかく何をやっても上手いよね。将来の棋界を担う有望な人材の一人といったところかな」
「里田六段は、藤本九段のお弟子さんの田島四段とよく研究会を開いてらっしゃるようですが」
「うん。田島くんのほうが確か少し先輩だったと思うけど、歳が近いから気が合うみたいだね」
「先手の羽田二冠のほうについては、いかがですか。藤本九段は羽田二冠と何度も公式戦で対局されていると思いますが……」
「羽田さんの将棋は、本当に不思議、としか言いようがない。僕もたぶん30局くらいは対戦して、7割くらいは負けてるんだけど、気付いたらいつの間にか僕のほうが劣勢になってるんだよ。終盤は詰みがあったらぜったい逃さないし、本当に天才だね」
「羽田さんは、普段はどのような方ですか?」
「普段ですか? 普段は……、ふつうだね。けっこう冗談も言うし、気さくで付き合いやすい感じですかね。あと、甘い食べ物が大好きで、よく食べてますね」
「甘い物と言いますと、ケーキとかですか?」
「ケーキに限らず、和菓子もよく食べてるよ。とにかく、持ち時間が長い将棋だったらおやつに必ず甘いものを注文してるね」
解説室のふたりがしゃべっているあいだに、局面はさっき藤本九段が動かしていたとおりに進んだ。後手7一金まで進んだのを確認してから、藤本九段はまたタッチパネルを操作した。
「ここまではもう、ほとんど定跡と言ってもいいね。で、さっきも言ったとおり、金をどっちに動かすかっていうのが悩みどころなんだけど、たとえば、こういう感じで」
明王盤の上で先手の右側の金が、4八と飛車のすぐ隣に動いた。
「それじゃ、この場合の”利巧”の形成判断を見てみましょうか」
升田女流がタッチパネルに振れると、
先手 -221 後手 +221
となった。
「えー!? これで先手が不利になっちゃうんだ。トントンくらいかと思ってたけど」藤本九段が唸り声を上げた。
そして明王盤の駒の配置を、現在の対局者のものと同じに戻した。
「意外ですか?」
「意外っていうか、ちょっと残念な気がするね。先手側でもじゅうぶん指せると思ってたから」
藤本九段はまるで自分が対局しているかのように難しい顔をして目を閉じた。そして、「あー、そうか」というような独り言を何度かつぶやいて、まぶたを開いた。
「先生は、研究や対局の検討などで将棋ソフトをお使いになられることはありますか?」
「うーん。自分が指した将棋の終盤の確認には使うこともあるけど、序盤の研究にはあまり使うことはないかな。やっぱり、コンピュータのほうが終盤が正確だから」
「どのソフトをお使いになってます?」
「えっと、ほら。何年か前に、初めてプロ棋士に勝った、コナンザっていうやつ。あれをうちのパソコンに入れてます」
「自宅でコンピュータを対戦されることって、ありますか?」
「あるよ。コナンザとは、まあ勝率で言ったら8割くらいは勝てるけど、最新のはもっと強くなってるんでしょう。たぶん、ぜんぜん敵わないね」
「先生からご覧になって、将棋ソフトの強さって、何がその秘訣なんでしょう」
「やっぱり、コンピュータは疲れないから。人間はどうしても、何時間も盤の前に座ってると、いつかは変な手を指しちゃう。特に終盤の、疲れに疲れ切ってるときが、いちばん重要な局面だから」
「もし仮に、ぜんぜん疲れない棋士がいたとしたら、将棋ソフトに全勝できますか?」
「いや、それは無理だと思う」藤本九段はあっさり言った。
後手が駒を動かすと、明王盤の形成評価が、
先手+190 後手-190
に変化した。
「人間がコンピュータに負けるのは時間の問題だったわけで、それが今やって来たっていうだけのことだよ。もう実際には、プロ棋士が束になって掛かって行っても勝てないくらい強いでしょ。……たまに、人間がコンピュータに負けたのに、弱い人間が将棋を続けることに意味はあるのかって言う意見もあるみたいだけど、コンピュータはあくまでも道具だから、この道具をどのように上手に使って将棋という日本の伝統文化を後世に遺していくかっていうことを考えなきゃね」
「そうですね」
「コンピュータのほうが強いから人間がやることに意味がないって言うなら、そのうち人間なんか地球上にいらなくなるなんてことになっちゃう」
対局開始から1時間ほどが経過し、手数は48手が指されて現在は先手番。藤本九段の形成判断は先後互角と言ったところだったが、”利巧”は先手の約+400と評価した。
「うーん。どうしてこの局面でこんなに差が付くんだろうね。”利巧”さんに尋ねてみたいね。将棋ソフトが喋ってくれるとありがいんだけど」
「ここで先手は、どのように指すのがいちばんいいんでしょうか」
「いろいろあるんだけど、たぶん一番いいのは4六角じゃないかな。飛車を引いておいて4筋の歩を突き捨てるのもアリだけど、4六角のほうがいいね」
「ちょっと、明王盤を使って、”利巧”の予想する次の一手を調べてみましょうか」
明王盤の表示が切り替わって、次の最善の一手は「4六角」となった。
「ほら、やっぱり4六角でしょ」藤田九段はうれしそうに言った。
ほぼ同時に、羽田二冠も角を動かした。
升田女流が、画面の外のほうに視線を持っていき、何かを確認するしぐさをした。
「えー、ここで本日使用している将棋ソフト”利巧”開発者の高瀬俊介さんと電話がつながっていますので、少しお話を伺ってみましょう。たかせさーん」
「はい」と電話独特のくぐもった声が聞こえてきた。
「よろしくお願います。女流棋士の升田です」
「よろしくお願いします」
「今日の対局の中継は、ご覧になっていらっしゃいましたか?」
「ええ。開始からずっと見てます」
「高瀬さんも将棋はアマチュア三段の腕前ということですが、どういうふうにご覧になっていますか?」
「画面を通して、両対局者の緊張感が伝わってきます」
「開発者としては、自分の作ったソフトがこういうふうに対局に利用されるというのは、どういったお気持ちなんでしょう」
「たいへん光栄ですね。プロの方に使っていただいて、本当に作って良かったと思います」
「先生のほうから、何か高瀬さんにご質問などありますか?」升田女流が隣の藤本に話を振った。
藤本は少し前のめりになるように姿勢を変えた。
「高瀬さん、こんにちは。棋士の藤本です」
「こんにちは」
「いろんな将棋ソフトがあると思うんですけど、ソフトによってちょっとクセみたいなのがあると思うんですよ。例えば、僕が家で使ってるコナンザだと、どっちかというと攻めが得意というか、そんな感じで。で、今日”利巧”の形成判断や次の一手を見てますと、どっちかというと受け将棋という感じのような気がするんですが、開発するときにそういったことを意識したんでしょうか?」
「えっと……、特にそういうふうには考えたことはないです。でも確かに、ソフトによって攻めか受けかというのはけっこうはっきりと別れますね」
「高瀬さんは、ご自分で指すときは、どうですか?」
「僕はたぶん、どっちかというと受けだと思います」
「それじゃ、ソフトも作った人に似ちゃうんだね」
高瀬は少し笑ってから、
「そうかもしれないですね」と言った。
「ちょっと曖昧な質問だけど、”利巧”はどれくらい強いんですか?」
「うーん……。とりあえず将棋ソフトのなかでは最強としか言いようがないですね。いちおう大会で優勝してますから」
「高瀬さん自身は、利巧と対局して勝てますか?」
「一回も勝ったことないです」
「ご自分が作ったソフトに勝てないって、どういうお気持ちですか」と升田女流が少し話をかき回すように言う。
「やっぱり、強いってことが単純にうれしいんですけど、正直言うと少し腹が立ちますね。一回くらいは勝ってみたいって」
藤本がさらに前のめりに身を乗り出した。
「”利巧”の次の一手を見てますと、たまにどうしてこんな手を指すんだろうってプロから見たら疑問に思うような手を指すことがあるんですが、”利巧”の思考プロセスを知るような術はないんですかね?」
「ちょっと、無理ですね。計算したらそういう手になった、としか言いようがないと思います。どういう手をどんなふうに評価したかというログを出すことはできるんですが、たぶんデータが膨大すぎて、人力で解析するというのは不可能かと思います」
「1手指すまでに、どれくらいの手を読むの?」
「持ち時間にもよりますけど、だいたい5000万から1億くらいですかね」
「へえ。すごいなあ。人間にはさすがにそこまでは無理だね。……将来的には、どうなんですか。開発者のあいだでは、さっき僕が言ったみたいに、将棋ソフトは将棋を指すだけじゃなくて、ここはこういう計算をしたからこの手が最善と判断した、みたいな、人間とのコミュニケーションを容易にしようっていう動きはないんですか?」
「ないこともないです。最善手の計算の過程を表示させるような機能の付いたソフトもあるんですが、人間と会話ができるようにするっていうのは、ちょっと今のところ実現は難しそうですね。でも、いずれはそういうことも出来るようになると思いますし、僕もそれに少しでも貢献できればいいなと思ってます」
藤本九段は何度かうなずいた。
「それでは」と升田女流が電話インタビューを閉めに入った。「高瀬さん本当にありがとうございました。この後のも明王戦の中継をお楽しみください」
「はい。どうもありがとうございました。失礼します」
電話が切れた。
「藤本九段、開発者の方をお話されていかがでした?」
「うーん。初めてソフトを作ってる人とお話させてもらったけど、おもしろいね。将棋ソフトが強いのは事実だけど、なぜこの手か、というのは開発者でもわからないんじゃ、どうしようもない。今のところ、将棋ソフトっていうのは、外部からは中身がどういうようになってるのかわからない閉じた空間みたいになってるって印象ですね。早く将棋ソフトが喋れるようになってほしいね。人間がソフトに近づこうと思っても、もうはるかに先に行っちゃってるから、ソフトのほうから近づいて来てもらわないと」
「ええ」
「将棋はずっと、人と人とのコミュニケーションとしての役割も果たしてきたから。盤を挟んで向かい合って、ああでもないこうでもないと言い合いながら交流を深めるっていうのが目的だから、これからは人類と人工知能との架け橋の役割を将棋が果たしてくれるようになったら、プロ棋士としてこれほどうれしいことはないね。僕はソフト開発のこととかは全然詳しくないけど、ひょっとしたら、人工知能を人間が理解するのって、人間が人間に対する理解を深めることに直結してるような気がする。なんとなく、だけど」
対局が始まって、1時間50分が過ぎた。局面は中盤を終えて相手の玉を追い込みに行く終盤に入った。後手の里田六段はすでに持ち時間を使い果たしている。一方、先手の羽田二冠はまだ持ち時間を20分以上残している。
形勢は何度かシーソーのように左右しながらも、”利巧”は今のところ先手の+500という判断をしている。
「おかしいなあ……。ここはどう考えても、後手のほうが良さそうなんだけど、玉の囲いの形は先手のほうが良いけど、馬を作ってるぶん後手のほうが優勢のはず」藤本九段は何度かそういうことをボヤくようにつぶやいた。
「この場合、先手としてはどういう手を指せばいいんでしょう?」
「うーん……。それが難しいんだよ。どうやっても悪くなるようにしかならなくて。とりあえず、5五に角引いて様子見てみるしか」藤本九段は何度も首をひねった。
「”利巧”の次の予想手見てみますか?」
「あ、そうだね。見てみよう」
画面には、次の一手は2二歩が示された。
「2二歩? ないでしょう。いくらなんでもそれは冗談だよ。香車は取れるけど、取ったところでどうしようもないし……」
「藤本先生としては、”利巧”の判断に異議アリと言ったところでしょうか」
「アリだね。2二歩で一気に悪くなって詰みまで行くなんてことはないけど、そんなの打ってもどうしようもないよ。もっとほかにマシな手はあるはず。なんでこんな手を思いつくのか、聞いてみたいくらいだよ」
画面は両対局者を映し出した。羽田二冠は頭を自分で抱えるように両手を後頭部に当て、盤をじっと睨んでいる。
そしてそのまま、時間が過ぎた。持ち時間が20分はあったはずだが、次の一手を指すまでに羽田二冠はそのすべてを使い切った。
記録係が、
「羽田二冠、持ち時間を使い切りましたので、これ以降は一手1分以内でお願いします」と言うと、羽田二冠は盤から少し目を離して、
「はい」と答えた。
そして次に指した手は、2二歩だった。
それを見て、解説室の藤本九段は、
「えっ!」と叫んだ。
「あ、羽田先生、ずいぶん長考されてましたけど、2二歩を指されましたね」
だいぶ前に持ち時間を使い果たしていた里田六段は、ほぼノータームで次を指す。自陣に置かれた2二歩は無視して、敵陣に手持ちの銀を割り打ちした。
「2二歩は”利巧”も予想してたけど、これはちょっと悪手だった気がするなあ。一気に後手が良くなった感じですよ。次に銀を成って相手の金が手に入るからね」
”利巧”の形成判断は、先手の+900まで一気に増えた。
「これは何かの間違いだよ。故障でもしたんじゃないの。どう考えても後手優勢としか思えない」
お互い一手1分になったので、将棋はそれまでよりも早く進んでいく。そして、さらに20手ほど進んだところで、
「あ、そうか!」と藤本九段がいきなり叫ぶように言った。
升田女流がきょとんとして、
「どうかされましたか?」と尋ねる。
「えっとね……、やっとわかったよ。あの2二歩の意味が。ここでさっき取った香車を、2六に打ってダダ捨てするんだ。そしてそこに飛車を回って、と金を引けば……、後手はもうどうしようもないね。そしてここで、例えばこんな手を指したとすると」
数秒考えた後、升田女流が口に手を当てて、
「え! これ、ひょっとして詰んでないですか?」と言った。
「うん。詰んでると思う」
「動かしてみましょう。そして、動かした後の”利巧”の評価は……」
先手+9999 後手-9999
「手数は長いけど、これで詰みのようですね」
「いやあ、まいった。本当にまいった」藤本九段は大興奮という様子で声を張り上げる。「2二歩だ。あの歩はこういうことだったんだ! 将棋ソフト、恐るべしだね。そしてそれを指した羽田さんも、本当にすごい。すごいとしか言いようがない」
先手が2六香を指したのを見て、後手の里田六段は訝しげな表情を見せたが、すぐにその後の手順に気付いたらしく、大きなため息を吐いた後、顔にしわを寄せて苦悶の表情になった。
50秒、1、2、3、4、と指す手のタイムリミットが記録係に読み上げられていく。そしてそれが、「8」まで数えらえたとき、里田六段は膝を崩して胡坐をかいていた両脚をすばやく正座に戻して、
「負けました」という小さな声を発した。
「まで、99手を持ちまして、先手羽田二冠の勝ちでございます」記録係がそう言い、頭を下げた。
それに合わせるようにして、戦いの終わったばかりの両対局者も礼をする。
画面は解説室の二人に切り替わった。
「さて、この局面で後手の投了となりましたが、以下の手順をお願いします」
「はい。この局面では後手は攻めきれないんですよね。先手の玉には詰みがないっていう状況です。なので、後手がこう指したとしても、飛車が回って、こうやって、こうやって………、こうしておけば金打ちで後手玉は詰みます。こう逃げたとしても、ここで飛車を捨てるのが良い手で、桂馬をはねたら詰み。ということで後手の投了もやむなしというところですね」
「ありがとうございます。本局を振り返って、いかがだったでしょうか」
「途中までは後手の里田六段も良い所があったと思うんです。ほぼ五分の戦いでしたが、終盤の2二歩、あれが決定打になったという感じだね。さすが、羽田二冠が貫録を見せたという将棋でした」
「ありがとうございました。それでは対局室に移って感想戦の模様をお伝えします」
対局を終えたふたりの棋士は、疲労困憊の色を隠さない。勝者の羽田二冠は目を閉じて首を下に向けて曲げたまま動かない。敗者の里田六段は、天井を見上げて何度もまばたきを繰り返していた。
背後のふすまが開いて、解説室から藤本九段と升田女流が小さな声で「お疲れ様でした」と言いながら、盤のすぐ近くに座った。
「それでは、感想戦のほうをお願いします」
「初手からでいいですか?」と羽田二冠。
「ええ、お願いします」
対局者は駒の配置を初形に戻し、 初手から順を追って対局を再現して行く。
勝者の羽田二冠は、「途中までずっと悪いと思ってた」や「序盤は作戦負けしたかなって思ってました」と遠慮がちに言った。4人のなかで最年少の里田六段も、「いやあ、僕も中盤までは指せそうと思ってたんですけど」などと言い、表情がかなり和らいでいた。
感想戦は早いペースで進み、75手目の検討に入った。羽田二冠は角を持ってそれを軽く盤に何度か打ち付けて、
「最初はこういう手も考えていたんですけど」と言う。
「解説でも、その手が最善かな、なんて言ったんですけどね」藤本九段は苦笑した。
「ここでずいぶんお時間をお使いになってましたね」と升田女流も感想戦に加わる。
「ええ。ずっと不利だなって思ってましたから、何とか手をひねり出さないとジリ貧になっちゃうから」
羽田二冠は角をもとの位置に戻すと、手持ちの歩を本譜のとおり2二に指した。それを見てすかさず藤本九段が尋ねる。
「普通ならここは自玉を固めるか、角か銀を引いてじっとガマンするしかないと思うんですけど、どうして2二歩なんて指そうと思ったんですか?」
羽田二冠は肩の凝りをほぐすかのように首を左右に振った。そして、
「いや……、ははっ。なんとなくです」と言った。
「なんとなく、ですか?」
「自分でもよくわかんないです。なんとなく、ここに歩打っておけば、後々良くなるような気がして」
人類最強棋士は、まるで少年のように微笑んだ。
了
※将棋公式戦「叡王戦」から強いインスパイアを受けました。作中の棋譜に関しては筆者が適当に書いたため、そこはツッコまないでください(苦笑)
最後までお読みいただきありがとうございます。