実習
大学院時代は暗黒期で、いまだにあまり思い出したくない時期だ。私は学部生の時分に就活がうまくいかず、半分逃げるように、違う大学の院に進学した。しかしそこは将来学校の先生になりたい学生が大半を占める大学だった。
完全に場違いだった。学校の先生になるつもりはなかったが「取れるなら取っておくか」程度のノリで教員免許を取得することにした。そうすると、学外でさまざまな実習を行うことが必修となる。
その中で、特別支援学校に行く実習があった。グループが自動的に割り振られた。AさんとBくん、年上の自分という3名が組まれた。AさんとBくんは同じ学部で、2人とも利発なタイプで、実習も難なくこなしていた。
実習先の特別支援学校は1クラスにつき先生が2〜3名いた。私は座りながら絨毯のように広げられたマットを揺らす、という難易度の高い動きができず、先生方とAさんにフォローしてもらった記憶がある。
小学校低学年くらいの児童が、明るい音楽が流れるカセットデッキを見つめながら、涙を流していた。おそらくいつものルーティーンの中に学生たちがいきなり入ってきたので、混乱してしまったのだろう。なんだか悪いことをしている気分になった。実習中は遠足もあり、短期間であったが、盛り沢山な内容だった。
特別支援学校での実習が無事終わり、最終日はAさんと帰った。AさんとBさんは同じ学部ということもあり、実習中も親しげに会話していた。てっきりAさんはBさんと行動を共にするのかと思っていたので、私がAさんと一緒に帰る状況は少し意外だった。Aさんはとても明るく、ちゃんとその場に合うリアクションを取れる「できる人」だった。AさんもBくんもちゃんとしていてすごいね、と会話の中で私が言ったのかもしれない。するとAさんは親御さんが教員だと教えてくれた。だから色々「わかる」のだと。だんだんAさんの語気が強くなっていった。
「一つのクラスに複数の先生がいて、連携をとっているけれど、裏では、先生同士って、お互いに何言ってるか分からないですよ」
「Bくんとは、別に仲良くないですよ。あの人、調子いいんですよ」
Aさんは一人一人の児童のこと、例えばその子の弁当の中身などもよく観察していて、家庭環境なども憶測していた。
短期間でよくそれだけ情報収集できるなと感心した。私はカセットテープの前で涙を流しながら耐えていた子を思い出した。なんの気無しに、実習に行かせてもらったけれど、学校側としては本当は迷惑かもしれないですね、と呟いた。
「いいんですよ。先生らはその分、高い給料もらっているんですよ」と、Aさんは吐き捨てるように言った。私はテキパキ実習をこなすAさんと、一点を見つめながら毒を吐き続ける目の前のAさんのギャップにいささか面食らいつつも、そうなんですか、と相槌を打った。
「私、おかしいんですかね」
少し沈黙があった後Aさんは、詰まった声で言った。私は驚いた。Aさんの目は苦悩に満ちていた。
この子は本当に「良い子」なのだなと思った。二面性なんて人間なら誰にでもあると思うが、Aさんのそれは明確に分かれていた。その場で求められることをそつなくこなすAさんと、不満や怒りを抱えながら冷静に状況を判断しているAさん。おかしくないと思いますよ、と言った。
特別支援学校の実習のほかに、もう一つ実習があった。次の実習先は障害のある人たちが日中活動を行う施設だった。そこでの実習は少し期間が長く、一週間程度だったと思う。今度は穏やかな男の子Cさんとのペアだった。Cさんは「受験勉強から解放されたら、夏休みは昼夜逆転して4時くらいまでネットを見る生活になっちゃって」と言っていた。サークルは入らなかったのか尋ねると、バトミントンサークルに一瞬入ったが、試合後に負けた敗因などを真面目に語り合う雰囲気が嫌で、辞めてしまったそうだ。
Cさんは穏やかで人が良く、利用者の女性がCさんの手にいきなり噛みついてしまった時も「大丈夫ですよ」と言っていた。日中活動では、みんなで公園に行き散歩をした。
実習も後半に差し掛かったある日、私は暗い気分だった。実習が終わるということは、また通常の学校生活に戻るということだ。私はそれが嫌でたまらなかった。当時、担当教官とそりが合わなかったのでとにかく研究室に戻りたくなかった。あんまり嫌だったので学校での活動は夜中に行なっていたくらいだった。夜に学校に向かい、明け方に自転車で帰ることが続いた。今振り返ると、よくそんなことができたと思う。
実習先の施設内は教室のようになっていて、机と椅子が並べられている。毎日ホームルームがある。給食もあった。時折、激しく暴れてしまう利用者を男性職員が抑えこむ光景に最初は驚くこともあったが、慣れてきた頃だった。その日は学校とのやり取りか何かあり、それが理由で悶々としていた。
今思えば勝手に戦っていたのだ。そしてとても疲れていた。朝のホームルームが始まる前、椅子に座ってぼんやりしていた。
すると、自閉症の男性がさっと私に近寄り、私の頬に手を置いた。一瞬だった。驚いて視線を上げた。もっと驚いたのはその後だった。私がそれまで感じていたモヤモヤとした暗い気持ちが、きれいさっぱりなくなっていたのである。何が起きたのかわからなくて男性を見つめたが、束の間視線が合った後、すぐにどこかに行ってしまった。
後年、兄弟が自閉症の知り合いにその出来事を伝えると、「わかる気がする。落ち込んでいるときにそばに来たりするから、どうしてわかるの?ってことがある」と言っていた。
一瞬で憂鬱な気持ちが吹き飛んだので、今思い出しても不思議な気持ちになる。その後、試しに自分の手で頬を触ってみたが、何も起こらなかった。
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