生まれ変わるべきもの(怪物)

2023.06.18
怪物


1、怪物だーれだ

 息子を助けようと奔走する母親も、虐められている児童を守ろうとする担任も、ある面から見れば狂っていて、ある面から見ると人間だった。劇中、何度も「怪物だーれだ」という台詞が繰り返される。どの人間も見方を変えるとみんなみんな怪物だ。結局人は自分の見たものしか見えなくて、自分のものさしでしか他人を推し量ることができない。絶対的な善人も、絶対的な悪人もいない柔らかい地獄みたいなこの世で私たちは生きている。
 
 クラスで依里をいじめていた少年も、依里の父親も視聴者には怪物に見えるが、少年が実家の手伝いをしているシーンや、依里の父親が嵐の中歩いているシーンを見ると、あぁこの人達も人間なんだと感じる。母親、保利先生、校長、だけでなく全ての人を多角的に映しきったところがこの映画のすごいところだ。
 みんな怪物で、同時に誰も怪物じゃない。見方によってどんな人間にも怪物にもなってしまうこの世は恐ろしい。でも、その怪物を作っているのも、結局自分自身なのだ。

 気になったのが「怪物」と「化け物」の違い。怪物は「正体のわからない、不気味な生き物。 性質・行動・力量などが人並外れた人物」のことを指し、化け物は「動植物や無生物が人の姿をとって現れるもの。キツネ・タヌキなどの化けたものや、柳の精・桜の精・雪女郎など。また、一つ目小僧・大入道・ろくろ首などあやしい姿をしたもの。お化け。妖怪。」のことを指す。(引用:goo辞書)覚えている限り、劇中で化け物という言葉を使ったのは依里の父親の「あいつは化け物ですよ」だけだった。父親は依里のことを人間扱いしていないから「お前の脳は豚の脳だ」っていう言葉が言えたんだろうな。誰もが怪物になりえるっていうのが大きなテーマだったと思うけど、化け物っていう言葉との使い分けもちゃんと書いてあるのか〜!依里の台詞に出てきた花言葉も、映画の内容にあったものばかりで、脚本の細部への作りこみを感じた。




2、生まれ変わるのは誰なのか

 小学5年生の湊は自分の性的嗜好を誰にも話せなかった。夕方の音楽室で校長先生にだけ「好きな人がいるけど、誰にも言えない。」「幸せになれない。」と伝える。それに対して校長は「言えないことは、フーッって」と楽器を吹く。「話してごらん」でも「言わなくていいよ」でもない、この返答が私は好きだ。話せるわけない、でも一人じゃ抱え込めない、そういう思いをのせたトロンボーンの音は、重くて、暗くて、でも大きく学校に響いていた。

 普通なんて無いというけど、社会には社会の作った「普通」という概念がある。そこから外れた人達に対して、世界はどこまでも残酷だ。残酷っていうのは「人や動物に苦しみを与えて平気なこと」らしい。苦しみを与えておいてなんで平気かって、それは、苦しみを与えていることに気づいていないからだ。湊の母親の早織の「湊が結婚して家族を持つまではお母さん頑張るって決めたから」も、保利先生の「それでも男か」も、自分の物差しで物事を考えて発言しているからこそ、そこに悪意は無い。悪意がないことが一番怖い。社会の作った普通から外れた人には、悪意のある攻撃も、悪意のない攻撃も向けられてしまう。それが、どれだけ苦しいのか私には分からない。分かるわけがない。でも湊も依里もそんな地獄みたいな世界を毎日生きていて、弱い私は二人を見ながらずっとずっと苦しかった。いろんな映画を観てきたけど、見ながら苦しくて映画館から逃げ出したくなったのは初めてだった。

 湊と依里は何度も生まれ変わりの話をする。クラスメイトからも親からも社会からも否定される自分という存在を、自分で肯定するのは難しい。小学5年生、11歳の子どもが「なんで産んだの」と思ってしまうほどに世界は残酷だ。湊と依里は、両親を変えようとはしない、クラスメイトに反論もしない。変わるべき存在と思っているのは、自分だ。「お父さんは僕の病気を治そうとしてくれてる」「お母さん、いつもありがとう」そう言って、自分を否定してくる存在のことを肯定して、自分のことを否定し続けて生きている。

 でも、映画の最後、嵐の後の二人は「生まれ変わったのかな」「そんなわけないじゃん」「そっか。よかった」と話す。湊は湊のまま、依里は依里のままで森の中を駆け抜ける。
 そうだよね、生まれ変わりたいわけないよね。自分は自分のままで、肯定されたいに決まってるよね。そんな当たり前のことができない、できなくさせられた湊と依里のことを思って、私はずっとずっと悔しくて、苦しくて、やるせなくて、歯がゆくて、涙が止まらなくて、いろんな感情がごっちゃごちゃになった。

 映画の最後、嵐の後の様子は、今までとは打って変わって明るく眩しいシーンが続く。茂みをかき分けた先には眩い日差しが差し込み、二人は楽し気に走り出す。そのあまりにも柔く優しく美しいシーンを見て、正直私は二人は死んでしまったんだなと思った。なんなら、死は救済でもあるなとさえ思った。ずっとずっと地獄みたいな世界を多角的に映し出していたが、最後に二人を逃避行させることも、社会に立ち向かわせることも出来た中で、あのどちらとも取れる(というか死んでしまったと捉えるほうが多数派だろう)最後にしたのは「世界はずっとずっと、どうしようもない」「そんな中で生きていくことは辛く苦しい」というメッセージ性だと思っていた。そういう世界に今我々は生きていて、そういう世界を作ってしまった側の人間なんだぞと伝えるがための生死を明確にしないラストなんだと思った。
 でも、是枝監督のインタビューコメントの中にこんな言葉があった。

「そこに描かれた2人の少年の姿をどのように映像にするか、少年2人を受け入れない世界にいる大人の1人として、自分自身が少年の目に見返される、そういう存在でしかこの作品に関わる誠実なスタンスを見つけられませんでした。なので、いただいた脚本の1ページ目に、それだけは僕の言葉なんですけども、『世界は、生まれ変われるか』という1行を書きました。常に自分にそのことを問いながら、この作品に関わりました」
(引用:映画ナタリー『「是枝裕和の「怪物」がカンヌ脚本賞、坂元裕二「たった1人の孤独な人のために書いた」』

 『世界は、生まれ変われるか』
 生まれ変わりたいわけない、でも生まれ変わらざるを得ないほどに残酷な世界を生きている湊と依里。でも、二人が生まれ変わる必要なんてない。生まれ変わるべきは世界のほうだ。
 世界が生まれ変わるのはきっとすごく難しい。近年LGBTQだとか、人種差別撤廃だとか叫ばれているけど、それでも社会の作り上げた「普通」が我が物顔で世界を統治している。湊や依里のような人たちが、今日もどこかで自分を否定しながら生きている。そういう世界が今までずっと続いてきて、今もそのままで、明日も変わらない可能性の方が高い。
 それでも、本当に遠い未来でも、少ない可能性でも、世界がいつか生まれ変わる日が来るのかもしれない。普通から外れた人たち側が変わったり、死を救済としたりするのではなくて、世界側が生まれ変わる日がほんのわずかでもあるのかもしれない。湊と依里が、自分自身を肯定しながら生きていける未来があるのかもしれない。すごく少ないパーセンテージだとしても、そう思えるように、あのラストだったのかなと思った。

 私は、世界のことを残酷だと思っている。柔らかい地獄だと思っている。異性恋愛が当たり前で、結婚出産が女の幸せで、障害者は可哀そうな人達で、それが「普通」として大多数の人間の価値観に組み込まれているこの世界はどうしようもないものだと思っている。世界の「普通」は変えられるものじゃないって、悲観でも楽観でもなく、そういうものだって思ってる。
 別に映画を観た今も世界が変わるなんて思ってない。そんな上手くいくわけないのは分かってる。今日も、明日も、来週も、来年も、湊や依里のような誰かが、自分を否定しながら生きていくんだろう。

 だけど、だからこそ、「世界は生まれ変われるか」って考えながら生きていかなきゃいけないんじゃないかな。そんな日が必ず来ると言えるほど夢見がちじゃないけれど、「世界は生まれ変われるか」と問いながら生きていくことが、この映画を観た私にできることなんだと思う。世界を構成しているのも、地獄みたいな世界を作ったのも、私たち怪物で、私たち人間だ。だったら、生まれ変わらせることができるのも、怪物であり人間である私たちしかいないのだから。


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