消えない罪と赦しの話(聲の形)

2020.07.31
金曜ロードショーで聲の形を見た。感想と感情。

深くて広い、赦しの物語だと思った。いい意味でも、悪い意味でも、登場人物の全員がリアルだった。視聴しながら、「でも、生きるってこういうことなんだよな」と思った。

「人を傷つけてはいけません」「みんな仲良くしましょう」「自分を大切にしましょう」この世は、たくさんのきれいな言葉で支配されている。そして、この世のフィクションも、たくさんのきれいごとで構成されている。だってフィクションだもの。現実はそういうわけにいかないから、人々はフィクションを求めるし、だからこそ、フィクションはいつだってきれいで、清く、正しくある。私はよくこう言った。物語の中くらい、救われたっていいじゃないか。私はバットエンドの物語が苦手だ。現実はかくもつらく厳しいのに、なぜ空想の世界までも苛酷にしなければいけないのか、と思っていたから。だからこそ、聲の形を見るのは辛かった。主人公の石田が西宮にしたいじめは、見ているだけで不快感に打ちのめされて視聴をやめようと思うほどだし、その後、手話を学ぶ石田を見ても、今更なにをという気持ちがぬぐいきれなった。

罪は消えない。
石田は、手話を覚え、西宮が通う手話教室にあしげく通う。だが、西宮の妹や母親の態度は冷たかった。しかし、それは至極まっとうなことだ。今更石田が手話を覚えたところで、彼のやったことがさらさらと消えるわけではない。西宮の中にも、西宮の家族の中にも、そして、石田の中にも小学六年生の1年間は残り続けるのだ。罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、そんな簡単な話ではない。罪を犯した人がいるのだ。そしてその罪によって傷ついた人がいるのだ。その傷が、必ず癒えるとも限らないのだ。

では、罪を犯した人間は、どうしたらよいのだろう。相手に謝罪しようと思っても、近づくなと言われる。近づけば、「どういうつもりだ」と頬を叩かれる。謝罪の意思を持っても、結局これだ。ならば、相手の前から姿を消すことが、最も良い選択なのではないか。少なくとも、今まで私はそう思っていた。でも、石田は違った。拒絶されても、歩み寄ることをやめなかった。罪は消えない。それでも、罪を償う道を歩む彼は立派だと思う。過去の罪は、大きい小さいの差はあれど、どんな人間も経験している。蓋をして、なかったことにして、自分の中から消し去ることもできる。でも、石田は、自分で蓋を開けて、自分の罪とまっすぐに向き合っていた。すごいと思った。

そして、西宮は、彼を赦した。一緒に時間を過ごし、彼の存在を否定せず、「友達」として新しい関係を築いた。その姿は次第に、周りの人間をも変えていった。妹の結弦も、母親も、彼を赦した。

この物語は、赦しの物語だと思う。石田は自暴自棄になり、橋の上で友人たちにひどいことを言ってしまう。「人を傷つけてはいけません」幼いころからこんこんと聞きなれた言葉が脳裏によぎった。それを石田は破った。罪を重ねていく。彼の周りに友人は、足早に彼のもとを去った。でも、みんな、石田を赦した。私は永束君の言葉が一番しみた。「ヤショー、橋の上でのことは気にするな。あんなこと、生きてりゃ何度でもあるさ!だからヤショー、遠くへ行かないでくれ、お願いだから!」そうだ。生きてりゃ、何度でもあるのだ。みんな間違える。みんな誤る。みんな何かが欠けていて、みんな人を傷つける。だから、赦す。童話や神話の登場人物みたいに、なにもかもが満ち足りている人間なんていない。みんな不器用で、足りなくて、変われないことばっかりだ。それが、現実だ。それを一個ずつちゃんと「ごめんなさい」と伝えて、一個ずつ赦して、一個ずつ向き合って、そうやって毎日は続いていく。きっとそれが生きるってことなんだろう。

間違えてしまう自分も、間違えてしまった他人も、赦して、愛して、生きていけたらいいなと思う。幸福になってはいけない人間なんて、いないのだから。


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