自分のために生きることの難しさ(ミッドナイトスワン)

021.01.24
ミッドナイトスワン

感想と自己解釈

①人は自分のために生きるべき
主人公凪沙は、一果の母になりたかった。不器用ながらも育まれていった二人の温かい愛情は、凪沙の気持ちも行動も大きく変えた。バレエの練習に付き合い、温かい料理を用意し、ぎこちないながらにも二人は確かに家族になろうとしていた。トランスジェンダーの凪沙は、女性、そして母親という存在に憧れのようななにかを抱いていたのだろう。サッカーボールを手渡すときのその眼差しは、母性に似たぬくもりがあった。自分の感情を上手く出せず、腕を噛みながら呻く一果を見て、守りたいという気持ちを持ったのかもしれない。とにかく凪沙は懸命に母になろうとした。女の自分を捨ててまで、だ。それが一果は許せなかったんじゃないかなと思う。一果の母も凪沙も「あなたのため」と言い、本人が望まないことに手を出す。だが、一果はそれを望んでいない。「頼んでない」という言葉は、単なる反抗ではなくて、「あなたはあなたの人生を生きてくれ」という怒りと願いなのかもしれない。人は、誰かを思うことが支えになるが、同時にそれは依存になる。自己肯定感が低い人間にとって、私なんかのために生きるより、愛する他人のために生きる方が生きやすいのかもしれない。自分でぶれない軸を持って、生きる目的を自分に定めることができる人間はもしかしたら少ないのかもしれない。一果は母親にも凪沙にも、一果のためではなくて、自分のために生きてほしかったんじゃないかな。

②白鳥の湖に重ねて
物語の中に何度も白鳥の湖がでてきた。ミッドナイトスワンでは、オデット=凪沙、ジークフリート=一果、オディール=一果の母親として描かれていると考える。真夜中の間だけ本来の姿に戻れる白鳥は、夜にキャバレーで美しく着飾って自分を表現できる凪沙のようだ。ただ、白鳥の湖には2羽の白鳥が出てくる。王子が一目惚れする美しい姫であるオデットと、その姫とそっくりの悪魔の罠オディール。ジークフリート王子とオデットは、人間に戻れないことを嘆き、来世で結ばれることを約束し、二人で湖に沈む。まるで、最後の冬の海の凪沙と一果だ。冬の海で、死にゆく凪沙のために舞った一果は、その後海へ進んでいく。来世を約束するかのようなその行為が、現世のどうしょうもなさを引き立てて苦しくなる。白鳥の湖のように、救われない二人の姿が、オデットとジークフリートのように感じた。オデットが人間に戻るために必要なことは「まだ誰も愛したことのない男性に愛情を誓ってもらうこと」。ミッドナイトスワンにおいて、この行為は一果に「お母さん」と言ってもらうことなのではないか。求めていた一果の母になれなかった凪沙だが、そこに一果の愛情は必ずあった。

③何が正解なのか
あのときこうしていれば…。後悔は常に人生に付きまとうものだが、この物語において、ifがいかに無意味かは痛いほどに伝わってくるだろう。凪沙が性転換しなければ、あのとき一果が着いこれば、いや、それで何が変わるのか。そもそも変えることで何を求めているのか。何が正解なのか分からないこの世界で、選んだこの道が正解だと言える強さがある人間は、一体どれくらいいるのだろう。皆弱くて、他人を支えにしないと生きていけなくて、それでも、今やれることを懸命に、しがみついていくしかないのだ。なりたい私になることも、在りたい私で在ることもとっても難しい。自分のために生きることが、どうしようもなく下手くそな人間ばっかりだ。そんな人間たちの日の当たらない場所での愛の話だった。切なくて苦しくて愛おしい。一果が幸福になってくれたことと、その一果が凪沙のために舞ってくれたことが救いだった。

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