『稲盛和夫一日一言』 5月1日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 5月1日(水)は、「人格=性格+哲学」です。
ポイント:人格というものは、人間が生まれながらに持っている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から成り立っている。
2005年3月発刊の月間誌『致知』(致知出版社)のコラムで、「人格はどうやってできるのか?」という問いかけに対して、「人格は性格と哲学の足し算」であるとして、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
世間には高い能力を備えながら、心が伴わないために道を誤る人が少なくありません。私が身を置く経営の世界にあっても、自分さえ儲かればいいという自己中心の考えから、不祥事を引き起こし、没落を遂げていく人がいます。
いずれも経営の才に富んだ人たちの行為で、なぜ?と首をひねりたくもなりますが、古来「才子、才に倒れる」といわれるとおり、才覚にあふれた人はついそれを過信して、あらぬ方向へと進みがちなものです。
そういう人は、たとえその才を活かして一度は成功しても、才覚だけに頼ることで失敗への道を歩むことになります。才覚が人並みはずれたものであればあるほど、それを正しい方向に導く羅針盤が必要となります。
その指針となるものが、理念や思想であり、また哲学なのです。そういった哲学が不足し、人格が未熟であれば、いくら才に恵まれていても、せっかくの高い能力を正しい方向に活かしていくことができず、道を誤ってしまいます。
これは企業リーダーに限ったことでなく、私たちの人生にも共通していえることです。
この人格というものは「性格+哲学」という式で表せると、私は考えています。
人間が生まれながらにもっている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格というものは成り立っている。
つまり、性格という先天性のものに哲学という後天性のものをつけ加えていくことによって、私たちの人格は陶冶(とうや)されていくわけです。
言い換えれば、哲学という根っこをしっかりと張らなければ、人格という木の幹を太く、まっすぐに成長させることはできないのです。(要約)
2001年発刊の『稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか』(稲盛和夫著 PHP研究所)の中で、人間の本性について、名誉会長は次のように説かれています。
「人間の本性は善か否か」
この本質的な問いかけについては、しばしば「性善説」と「性悪説」に分かれて議論が展開されています。しかし私は、人間の本性とは「善でもなければ悪でもない」と考えています。
人間は一人で、あるいは自分と家族だけでこの世に生きているわけではありません。ジャングルの中であれ、社会であれ、隣人がいます。
しかし、みんなが自由である以上、欲望を満たすために、横にいる人が自分の食糧を奪ってしまうかもしれない。そうであるならば、自分が十分な食を得て幸せでありたいと思って欲望のままに行動することによって、他人に不幸をもたらす可能性もあるわけです。
その可能性を実際に追求したのが「悪」です。つまり、自由があるからといって、自分勝手に振る舞えば、そばにいる人に不自由を強いることになる。自分が自由を謳歌すると、他人が不自由になる。
つまり、人間は自由であるがために、知らないうちに他人に対して悪を為すことがあるわけです。
お釈迦様は、自分が本能むき出しのままに生きれば、つまり「自由であり過ぎれば悪を為す」ことがあると知って、「本能を抑えること」「欲望を抑えること」「足るを知ること」「持戒(じかい)をすること」を説かれました。
そうした教えの通り、自分の本能、欲望を制御できる人が悪を為さない人であり、また抑えるだけでなく、積極的に他人を助けてあげようとする心を持った人は、善を為す人といえるでしょう。
結局、人間はその人の意識と行動によって、善き方向にも悪しき方向にも進む。つまり、人間は生きていく以上、自由であるがゆえに悪をつくる可能性が十分にあるのですが、自分を抑えることによって、悪をつくらず、善を為すこともできるのです。
性善か性悪かといった発想を超えて、人間は自由を手に入れたがゆえに、その自由の使い方によって、悪にもなり善にもなるのだということを理解しておくことが必要だと思います。(要約)
性格という先天的なものに、哲学という後天的なものをつけ加えていくことによって、私たち一人一人の人格は陶冶されていく。
「陶冶」には、「陶器をつくること、鋳物をつくること」という本来の意味に加えて、「人の性質や能力を円満に育て上げること、育成すること」といった意味があります。
生まれながらの性格は変えられないにしても、生まれてから死んでいくまでの間に、誰もが自分の心をより善なるものに「陶冶」していくための努力を怠らなければ、世の中は確実によくなっていくのではないでしょうか。