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『稲盛和夫一日一言』 6/21(水)

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 6/21(水)は、「一芸に秀でる」です。

ポイント:仕事を究めるということは、自らの人間性をも素晴らしいものにつくり上げることに通じている。一芸に秀でる、物事の本質を究めことで、万般あらゆるものに通じるようになることができる。

 2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)の中で、物事の本質を究めることの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 「一芸に秀でる」という言葉があります。例えば、「大工の仕事を究める」ということは、ただ単にカンナをかけて素晴らしい建物を作れるようになるということだけではなく、自らの人間性をも素晴らしいものに作りあげるということに通じています。

 以前、テレビである宮大工の方が対談をされているのを見て、感心させられたことがあります。年齢は六十か七十くらいでしょうか、小学校を出てからずっと宮大工としてつとめてこられたとのことでしたが、その方が大学の哲学の先生と対談をしておられたわけです。その方が大学の先生がタジタジになるぐらい、素晴らしいお話をされました。

 つまり、一芸に秀でた人、物事の本質を究めた人は、万般あらゆるものに通じるようになる、私はそう感じたわけです。そして、私自身、そういう境地にまで行かなければと思ったものでした。

 物事の本質を究めた人は、漂う風格もどこか違っています。高度な教育を受けていなくても、自分の仕事を究める、一芸に秀でることで、素晴らしい人格をつくりあげることができるのです。

 私は、ひとつのことに打ち込んで、それを究めることによって、はじめて真理に達することができ、森羅万象を理解することができると思っています。修行を経て己の人格を磨いてこられたお坊さんを始め、大工、庭師、作家、芸術家など、その道を究めてこられた方々の話には、非常に含蓄があるものです。

 それは、すべてのものの奥深くに、それらを共通に律している真理があるからではないでしょうか。ひとつのことを究める、一芸に秀でるということが、すべてを知ることになるということを忘れてはなりません。(要約)

 2005年発刊の『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』(西岡常一著 日本経済新聞出版社)の中で、次のようなエピソードが語られています。

 農学校を卒業した私に、(宮大工の棟梁だった)祖父の常吉は、1年間という条件付きで「実際に農業をやってみろ」と命じた。

 田んぼの収穫が終わって、その結果を祖父に報告すると、ねぎらってもくれない。一反半の田んぼからの私の収穫量は三石。普通の農家なら四石五斗なければならない。

 祖父は口を開いた。「おまえは、稲を作りながら、稲と話し合いをせずに、本と話し合いをしていた。稲と話し合いができる者なら、窒素やリン酸は知らなくても、今、水を欲しがっとるんか、今、こういう肥料をほしがっとるちゅうことが分かるんや。本と話すから、稲が言うこときかんのや」
 「おまえも、これからいよいよ大工をするんやが、大工もその通りで、木と話し合いができなんだら、本当の大工にはなれんぞ」
 そのことを体得させるために、祖父はわざわざ私に農業の修業をさせたのであった。
(要約)

 究めた先にある世界を見たと公言できるほどの人は、そうはいないでしょう。しかし、一つのことに精魂込めて打ち込み、その核心となる何かをつかんだと実感した体験を持っている人は、対象は異なったとしてもその体験をあらゆるものに展開できるようになるのだと思います。

 小さくてもいいから成功体験を積み上げていきましょう、と言われるのも、物事の真理の入り口が見えた、あるいは片足だけでも踏み込んだという、そうした小さな体験が尊いからです。

 目の前の一見つまらないと思えるようなことにも、全身全霊を傾ける。それによって、必ずや物事の真理をつかんだり、真理に迫ることができるようになっていくのではないでしょうか。


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