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『稲盛和夫一日一言』3/9(木)

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 3/9(木)は、「大善は非情に似たり ①」です。

ポイント:人間関係の基本は、愛情を持って接すること。しかし、それが盲目の愛であったり、溺愛(できあい)であってはならない。表面的な愛情で接することは、結果的に相手を不幸にしてしまうことになる。

 2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)の中で、真の愛情とはどうあるべきかということについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 私は一貫して、事業に対するチャレンジ精神、勇気を持つことと同時に、利他の心、優しい心、思いやりの心、純粋な心、美しい心を持つよう心がけてきました。また、フィロソフィを通して社員にもそう説いてきました。

 ところが、いざ事業を始めてみると、どうしても従業員に小言を言わなければならなし、ときには厳しく叱責したり、場合によっては「辞めてくれ」ということまで言わなければならないときも出てきます。私はたちまち矛盾に直面してしまいました。

 それは、まさに私のエゴではないかと思ったほどでした。つまり、経営者になった途端、自分の会社を良くせんがために、今まで自分が抱いてきた人生観に反する醜いことを社員に要求し始めた。いよいよ、自分は悪の本性を現したな、と思ったのです。そのことで私は非常に悩みました。しかしその後、仏教の教えに「小善は大悪に似たり」という言葉があるのを見つけ、「これだ!」と思ったのです。

 自分の子どもが可愛いばかりに溺愛し、甘やかし放題に育てたところ、成長したあかつきにはロクでもない人間に育ってしまった。可愛いからと子どもを溺愛するという「小善」をなしたころが、結局当人にとって「大悪」をなしたことになる。つまり、この言葉は、小善を行うことは大悪を行うことに等しいのだということを意味しています。

 ただただ社員の言いなりになって優しさを振りまくだけでは、いずれ会社をダメにしてしまう。真面目に働いてくれる社員もいるのに、この会社を潰すような人がいれば、また、それを許してしまえば、大きな罪をなすことになる。ただ勇気がないばかりに、社員の機嫌ばかりとって、会社全体を不幸にしてしまうということがあってはならない。叱るべきときは、心を鬼にして叱ろう。それが大善なのだ。

 そう自分に言い聞かせ、それからは矛盾に悩まされることなく仕事にあたることができました。長い間悩んでいた私を救ってくれた言葉こそ、この「小善は大悪に似たり」だったのです。(要約)

 今日の一言には、「人間関係の基本は、愛情を持って接することにあります。表面的な愛情は相手を不幸にします」とあります。

 私も京セラ在籍40年の間、ずいぶんと叱られてきました。しかしいくら厳しく叱られても、信念を持って指導してくれる上司の言葉は、素直に心の中に浸み込んできたなと感じています。

 「怒る」と「叱る」の違いについては、皆さんも聞かれたことがあるかと思います。
 「怒る」は、感情的に自分のイライラや怒りをぶつけるもの、「叱る」は、相手のためを思いアドバイスや注意をすること、と定義されています。
 また、「怒る」は自分のため、「叱る」は相手のため、という区分も簡単で理解しやすいかと思います。

 私はと言えば、リーダー、上司という立場になってからは、自分の感情に任せてただ怒ってしまうばかりで、反省することのほうが多かったように思っています。どうしても意に添わない結果が出たりすると、自分は関係ないと自己保身に走るか、自分可愛さに相手を責めてしまったりしがちです。
 そうしたときは、「怒り」の一言を発する前に一瞬でもグッとこらえて冷静さを取り戻そうと努めることです。そうしたトレーニングを繰り返すことで、幾分かでも気持ちを抑えて会話に入ることができるようになります。

 年齢が上がれば上がるほど、叱られる機会は減っていきますが、「謙虚にして驕らず、さらに努力を」の気持ちを持ち続けていれば、これからもあちこちで人生の師に出逢うことができ、「おまえはまだまだ修行が足らん!」と叱ってもらえる機会もいただけるのではないかと思っています。


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