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『稲盛和夫一日一言』 5月6日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 5月6日(月)は、「正道に困難はつきもの」です。

ポイント:真面目に、原理原則を貫いて生きていこうと思えば、いろいろと困難に遭遇してしまう。しかし、そうした困難を楽しむくらいの境地にならなければ、正道を実践し続けることはできない。

 2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)「誠の道を踏み行えば角が立つ」の項で、正道を踏むことが人生の王道であるとして、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 西郷は、自分が幼いころに大人たちから教わった「人としての道」を、生涯忘れることなく、常にその実践をはかっていたはずです。

【遺訓二九条】
 道を行う者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢うものなれば、如何なる艱難(かんなん)の地に立つとも、事の成否身の死生(しせい)抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手あり、物には出来る人出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれ共、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管(ひたすら)道を行い道を楽しみ、若(も)し艱難に逢うてこれを凌(しの)がんとならば、弥々(いよいよ)道を行い道を楽しむべし。予(よ)壮年より艱難と云ふ艱難に罹(かか)りしゆえ、今はどんな事に出会う共、動揺は致すまじ。それだけは仕合わせ也。

【訳】
 正道を踏み、行う者はどうしても困難な苦しいことに遭うものだから、どんな難しい場面に立っても、その事が成功するとか失敗するとかということや、自分が生きるか死ぬかというようなことを少しも心配する必要はない。物事をなすには上手下手があり、物事によってはよくできる人やあまりできない人も自ずからあるので、道を行うことに不安を持ち動揺する人もあろうが、人は正道を実行しなければならぬものだから、道を行うという点では上手下手もなく、できない人もない。だからただひたすらに正道を踏み行い正道を楽しみ、もし困難なことに遭遇して、それを乗り切ろうと思うならば、結果がどうなろうとも、淡々としてさらに正道を行い正道を楽しもうと思わなければならぬ。自分は若い時から困難という困難に遭って来たので、今はどんなことに出会っても心が動揺するようなことはないだろう。それだけは実にしあわせだ。

 正道、つまり天道に従って生きていくということは、言い換えれば、ご都合主義で生きないということです。
 頑なに正道を貫けば、「人でなし」といわれたり、思わぬ困難に遭遇したりすることもあるでしょう。そうすると、正しい道をとることに疑いを持ったり、正道をとることで、果たしてうまくいくのだろうか、成功するのだろうかと動揺し、危惧するようになる人も出てくるはずです。

 ところが、「そんな心配はいらない」と、西郷はいっています。それどころか、自分が正しいと思う道を踏み行っていくのだから、事がどうなろうとも、一生懸命に道を踏み行っていることを楽しむくらいの境地にならなければ、正道を貫き通すことはできないと断言するのです。

 それを聞いてもすぐには納得しない庄内藩の若者たちに対して、「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し」という漢詩に込められた、自身の壮絶な人生経験を語りながら、西郷は諭したのだろうと思います。

 正道を踏んで、困難にばかり遭遇して苦労ばかり重ねているよりは、ご都合主義で生きた方が得ではないか、苦しければ苦しいほどそう思ってしまう。
 そんな人間の弱さをよく知っていた西郷だからこそ、その苦難を楽しむ境地にならなければ、正道を踏み行っていくことなど、とてもできないといいたかったのだと思います。
 「正道を踏むことで、必ず報われる」 西郷はそう信じていたに違いありません。そして正道を踏むということが「人生の王道」であり、さらにはそれが万人の務めだと考えていたのだと思います。
(要約)

 親や先生から教わったけれども、大人になるにつれて忘れたり意識しなくなってしまうような単純な規範を、名誉会長はそのまま経営の指針に据えて、守るべき判断基準とされました。

 それはとてもシンプルで、かつ広く浸透しているモラルや道徳といったものをベースとしたものだったからこそ、筋の通った原理原則となり得たのではないでしょうか。

 フィロソフィの原点は、「常に人間として何が正しいかを考え、正しいことを正しいままに貫いていく」という姿勢です。
 正道を実行する人が困難に遭遇するのは当然なこととして、その困難を楽しむくらいのぶれない信念と、少しばかりの心の余裕を持って、残りの人生を生きていければと思っています。


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