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モーツァルトの部屋

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2021年9月の記事一覧

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『レクイエム ニ短調(独語名:Requiem in d Moll)K 626』ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン楽友協会合唱団 (S)ヴィルマ・リップ (A)ヒルデ・レッセル=マイダン (T)アントン・デルモータ (Bs)ヴァルター・ベリー 1961年10月5日~12日録音をダウンロード 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 レクイエム ニ短調(独語名:Requiem in d-Moll)K. 626は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年 - 1791年)が作曲したレクイエム(死者のためのミサ曲)である。モーツァルトの最後の作品であり、モーツァルトの死によって作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。 しばしば、ヴェルディ、フォーレの作品とともに「三大レクイエム」の一つに数えられる。 作曲の経緯 楽曲冒頭、第1曲「レクイエム・エテルナム」最初の部分の自筆譜 1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていた。旧知のシカネーダー一座から注文を受けたジングシュピール『魔笛』K. 620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K. 621の注文を7月末に受け、これを優先して作曲する。ジュースマイヤーにレチタティーヴォの部分を手伝わせてようやく完成の目処が立ち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男性が彼を訪ねた。男性は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった[注 1]。 9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月30日の初演に間に合わせる。その後、レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり、11月20日頃には床を離れられなくなってしまう。12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界する(享年35)。彼の葬儀は12月6日にシュテファン大聖堂の十字架チャペルで行われ、4日後の10日にはエマヌエル・シカネーダーなどの勧めによりホーフブルク宮殿の前にある皇帝用の聖ミヒャエル教会でのミサで「レクイエム」の「初演」がそれまで完成した形(第2曲以下をクワイアーは斉唱)で行われた。[1] モーツァルトの死後、未亡人コンスタンツェと再婚したゲオルク・ニコラウス・ニッセンの著したモーツァルト伝などにより、彼は死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という伝説が流布した。当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いているのである。いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたが、1964年になってこの匿名の依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック(英語版)伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープ (Franz Anton Leitgeb) という人物であることが明らかになった。ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた。彼が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相だった。したがって、何ら神秘的な出来事が起こったわけではない。ただ、モーツァルトが自身が死へと向かう病床にあってなおレクイエムの作曲をしていたのは事実である。コンスタンツェの妹ゾフィーは、モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだったと姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた手紙の中で述べている。なお、イタリア語で書かれたダ・ポンテ宛ての手紙は偽作説も有力である。というのも、イギリスに滞在していたダ・ポンテが見知らぬ男性のことを知り得ないはずだから、というのが主な根拠である。 ダ・ポンテ宛の手紙 あなたのお申し出に喜んで僕は従いたいのですが、しかしどうしてそのようにすることができましょう。僕は混乱しています。話すのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。僕はいつでもその姿が見えます。彼は懇願し、せきたて、早急にも僕に作品を求めるのです。僕も作曲を続けてはいます。休んでるときよりも、作曲しているときのほうが疲れないのです。それ以外、僕には恐れるものもないのです。最後のときが鳴っているように思えます。僕は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりにたどり着いてしまいました。しかし、人生は、なんと美しかったことでしょうか。生涯は幸福の前兆のもとに始まりを告げたのでした。ですが、人は自分の運命を変えることは出来ません。人はだれも、自分で生涯を決定することは出来ないのです。摂理の望むことが行われるのに甘んじなくてはいけないのです。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません。 この文は全文がイタリア語で書かれており、死の年の9月に書かれたとされるが、自筆の書簡は失われており、偽作という疑いも強い。なお、初めの文での「あなたの申し出」とはダ・ポンテがモーツァルトにイギリス行きを勧誘したことであり、後半の「死の歌(カント・フネープレ)」というのはもちろん、レクイエムのことである。また、この手紙が一般にダ・ポンテ宛てだと言われているのは、全文がイタリア語で書かれているということからの推測に過ぎず、確固たる根拠はない。 作品の補筆から初演・出版 コンスタンツェ モーツァルトの死後、貧窮の中に残されたコンスタンツェは、収入を得る手段としてこの作品を完成させることを望んだ。まず、モーツァルトも高く評価していたヨーゼフ・アイブラーが補作を進めるが、なぜか8曲目の途中までで放棄する。作業は他の弟子、ヤコプ・フライシュテットラーおよびジュースマイヤーに委ねられ、ジュースマイヤーが改めて一から補筆を行って最終的に完成させた。完成した総譜は作品を受け取りに来た使者ライトゲープを通じてヴァルゼック伯爵に引き渡され、コンスタンツェは作曲料の残りを得た。 伯爵は自分の作品であるとして、1793年12月14日にウィーンのノイクロスター教会において自身の指揮でこの曲を演奏したが、コンスタンツェは手元に残した写譜から亡夫の作品として出版する。このため後に伯爵が抗議するという一幕もあったというが、モーツァルトの名声はすでに高まりつつあり、この作品はモーツァルトの作品として広く認知されるようになった。なお、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の計らいで、コンスタンツェのために1793年1月2日に本当の初演が行われたという説がある。 典礼の際に利用するため、「リベラ・メ」【我を救い給え】の補作が行われることがあった。著名なものに、1819年にリオ・デ・ジャネイロで演奏するために作曲されたジギスムント・フォン・ノイコムによるものと、1827年のベートーヴェンの葬儀で演奏されたイグナーツ・フォン・ザイフリートによるものがある[2]。 注釈 1^ 作曲の依頼時期は伝記などでは7月説もある。本稿ではより合理的なH. C. ロビンズ・ランドンの説を採用した(末尾の参考文献) 2^ リチャード・モーンダー(ドイツ語版)やロバート・レヴィンなど。しかし、例えばロビンス・ランドンは「レクイエムのためではなく、(同じくニ短調の)キリエ K.341(英語版)などを含んだ未完のミサ曲のもの」と主張している。 出典 1^ Mozart『Requiem』(Baerenreiter-Verlag Karl Voetterle GmbH、2017)のChristoff Wolffによる前書き 2^ “知性派古楽奏者スホーンデルヴィルトによる新しいモーツァルトのレクィエム”. lohaco.jp. 2018年11月21日閲覧。

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『ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K 491』 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したピアノ協奏曲。モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、短調の作品はこの曲と第20番ニ短調K.466だけである。 モーツァルト自身の作品目録によれば、1786年3月24日に作曲された。初演は同年4月7日、ウィーンのブルグ劇場で開かれたモーツァルト自身の予約音楽会で行われた。翌月の5月1日にはオペラ『フィガロの結婚』が初演されている。 多くの人がイメージするような「モーツァルトらしい」明るい曲ではなく、暗く情熱的な作品であり、ニ短調のピアノ協奏曲とは違い唯一短調で始まり短調で終わる構成となっている。しばしば「ベートーヴェン的な」作品と言われる。 モーツァルトの弟子であるヨハン・ネポムク・フンメルは、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。 楽器編成 独奏ピアノ、フルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦五部 モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、最大の編成である。オーボエとクラリネットの両方を採用している。木管楽器が活躍する場面の多い曲になっている。 構成 第1楽章 第1主題 第1楽章 アレグロ ハ短調 3/4拍子 ソナタ形式 第1主題の中の跳躍する音型は第1楽章の中で何度も繰り返される。第2提示部で第1主題が繰り返される前に、ピアノが独自の主題を見せるのは、ニ短調の協奏曲と共通する。: 第2楽章 冒頭部分 第2楽章 ラルゲット 変ホ長調 2/2拍子 ロンド形式 第1楽章と第3楽章とは対照的に、穏やかな優しい曲。木管とピアノの応答が美しい。 第3楽章 主題部分 第3楽章 アレグレット ハ短調 2/2拍子 変奏曲 主題と8つの変奏からなる変奏曲。アルフレート・アインシュタインは「革命的なぶきみな急速行進曲」と呼んでいる。第4変奏と第6変奏では、第2楽章に似た木管とピアノの楽しい応答がある。最後には6/8拍子に変わり、同主長調に転調して明るく終わるニ短調の協奏曲とは違い、悲劇的なハ短調のまま締めくくられる。 第1楽章のカデンツァや第2、第3楽章のアインガングは、モーツァルト自身のものは残されていない。そのほかにもピアノのパートを完成させていない部分がいくつかある。これらは、モーツァルト自身が演奏会で即興演奏した部分と思われる。 関連する曲 モーツァルトが書いたハ短調の有名な作品には、管楽器のためのセレナード第12番K.388『ナハトムジーク』がある。この曲は、のちに弦楽五重奏曲第2番K.406に編曲された。 第24番K.491が書かれた直前の3月2日にはピアノ協奏曲第23番K.488が作曲されている。直後に初演された『フィガロの結婚』のケッヘル番号はK.492で1つ違い。 アルフレート・アインシュタインは、ベートーヴェンはモーツァルトの曲に感嘆し、自分の曲の中で「二、三の貢物を捧げている」と述べている[1]。 脚注 1^ アインシュタイン(1961, pp. 422)

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『ファゴット協奏曲 変ロ長調 K. 191 (186e)』 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ファゴット協奏曲 変ロ長調 K. 191 (186e) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したファゴットと管弦楽のための協奏曲。 概要 モーツァルトが18歳の時の作品であり、古今のファゴット協奏曲の中で最もよく知られた作品とされている。 モーツァルトは他に3曲の協奏曲をファゴットのために作曲したと考えられているが、現存するのはこの1曲のみである。一時期、失われた協奏曲の1曲として出版された変ロ長調の作品があるが、これはモーツァルトでなくフランソワ・ドヴィエンヌの作品と推測されている。 この協奏曲が作曲された事情や初演についてはわかっていないが、1774年6月4日にザルツブルクで完成しており、ザルツブルクの宮廷楽団員のために書かれたと考えられている。 楽器編成 独奏ファゴット、オーボエ2、ホルン2、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、低弦(チェロ、コントラバス) 楽曲構成 第1楽章:Allegro 第2楽章;Andante ma adagio 第3楽章:Rondo: Tempo di Menuetto アーサー・グロスマン(英語版) (ファゴット)、Ling Tung(指揮)、第七軍交響楽団による演奏 (1957年) これらの音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 以下の3楽章からなる。演奏時間は約17分。 第1楽章 アレグロ 変ロ長調、4分の4拍子、協奏風ソナタ形式。 第2楽章 アンダンテ・マ・アダージョ ヘ長調、4分の4拍子、展開部を欠いたソナタ形式。 第3楽章 ロンド:テンポ・ディ・メヌエット 変ロ長調、4分の3拍子、ロンド形式。

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『交響曲 第4番 ニ長調 K. 19 』 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 交響曲第4番 ニ長調 K. 19 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲である。 概要 モーツァルトは、1764年の4月から翌年の1765年の7月まで父レオポルトと姉ナンネルと共にロンドンに滞在していた。この曲は同地で作曲された最初期の5曲の交響曲(現在はK. 16、K. 16a、K. 19、K. 19aの4曲のみ現存)のうちのひとつで、父レオポルトが病気で倒れた1765年に、ロンドンかオランダのハーグで作曲されたと推測されている。 作品にはカール・フリードリヒ・アーベルや、尊敬していたヨハン・クリスティアン・バッハの影響が大きくあらわれているが、第1楽章の転調する部分はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの影響が見られる。 楽器編成 管楽器:オーボエ2、ホルン2 弦楽器:第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス 曲の構成 3楽章の構成で、典型的なイタリア風序曲の形式を採っている。演奏時間は約11分。 第1楽章 アレグロ ニ長調、4分の4拍子。 第2楽章 アンダンテ ト長調、4分の2拍子。 第3楽章 プレスト ニ長調、8分の3拍子。

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『交響曲 第41番 ハ長調 K 551「ジュピター」』ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ルネ・レイボヴィッツ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1962年1月8日録音 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 交響曲第41番 ハ長調 K. 551 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した最後の交響曲である。 概要 本作はローマ神話の最高神ユーピテルにちなんで『ジュピター』(ドイツ語ではユーピター)のニックネームを持つが、これは同時代のヨハン・ペーター・ザーロモン(1745年 - 1815年)が名付けたとヴィンセント・ノヴェロ(1781年 - 1861年)の『モーツァルト巡礼』(1855年)に紹介されており、このニックネームは19世紀半ばにはすでに広く知れ渡っていたと考えられる。本作品のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想から付けられた通称であり、標題的な意味合いはない。 1788年8月10日に完成され、同年に作曲された第39番(6月26日)、第40番(7月25日)とともに「3大交響曲」と呼ばれる。他の2曲同様、作曲の目的や初演の日時は不明であるが、モーツァルトの生存中には演奏されていたと見られている。 モーツァルトを崇敬していたリヒャルト・シュトラウスは、1878年1月26日にルートヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙において[1]ジュピター交響曲を「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」[2][3]と称賛しており、1926年に自身の指揮で録音も行なっている。 自筆稿は現在ベルリン国立図書館にある。 曲の構成 第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ ハ長調、4分の4拍子、ソナタ形式。 終楽章と同様に、数々の動機を複雑に組み合わせた構成をとっている。序奏なしで、16分音符の3連符による音階の上昇を伴った力強いハ音の連打の動機と、伸びやかで優しい旋律的動機が組み合わされ、それが次にト音の連打で繰り返される第1主題で始まる。弾むようなファンファーレのリズムがこれを受け継ぐ。これらが混合、対位されながら進み、半音階の上昇を伴った柔らかな第2主題に至る。 それを第1主題の伸びやかな旋律が受け継ぐが急に途切れると、モーツァルトならではの無邪気な終結主題が現われ提示部を終える。 展開部の前半はこの最後に現われた主題を引き継いだ楽想が短調で展開されるが、後半は第1主題冒頭の動機が展開され、そのまま再現部を導く。再現部は短調で再現される部分もあるがほぼ型どおりに進み、短いコーダがついて終わる。 第2楽章 アンダンテ・カンタービレ ヘ長調、4分の3拍子、ソナタ形式[4]。 弦楽器は弱音器が付けられ、ティンパニとトランペットは休みとなる静かな緩徐楽章。 第3楽章 メヌエット:アレグレット ハ長調、4分の3拍子。 ゆるやかに下降する主題で始まる優美なメヌエット。 トリオの後半では、第4楽章のジュピター音型がイ短調で「ソ#-ラ-レ-ド」という形で先取りされる。 第4楽章 モルト・アレグロ ハ長調、2分の2拍子、ソナタ形式。 高度で複雑なフガートの技法が用いられたソナタ形式。 ジュピター音型と呼ばれる「ド-レ-ファ-ミ」の動機Aで始まる第1主題はこのジュピター音型のほか、続く5小節からの動機Bと、19小節からのファンファーレ風の始まりオクターブを駆け下りる動機Cの三つの動機を持っている。第1主題提示のあと、36小節からジュピター音型(動機A)によるフガートが進み、56小節から音階を6度上昇する動機D1、跳躍する動機D2が現われる。74小節からの第2主題部は動機Eで始まり動機Cを伴った柔らかなものだが、動機D1が入ってきて力強く盛り上がる。提示部終結部は動機Bで力強く進み、動機Cの上行形も現れて締め括る。展開部は動機Aで始まり動機Cが加わり、主に動機Cが展開される。225小節からの再現部では動機Aが移高しながら繰り返されて緊張を増すが、提示部にあったフガート部分は存在せず、第2主題へ進みその後は型どおり再現される。コーダでは、第2主題も参加したすべての動機が充実した対位法で登場したあと、第1主題が堂々と現われ、華やかに全曲を閉じる。 コーダの390–395小節。赤: 動機A, 黄: 動機C, 緑: 動機D1, 黒: 動機D2, 青: 動機E ジュピター音型 第4楽章で使われる「ジュピター音型」(C - D - F - E、ド・レ・ファ・ミの4音符)は、モーツァルトがたいへん好んだモチーフである。 MozartJupiterFinaleTheme.PNG 8歳で作曲された交響曲第1番 変ホ長調 K. 16の第2楽章をはじめ、次のようにさまざまな楽曲に使われている。これは、古くから多くの作曲家に使われていたモチーフでもある。 交響曲 変ロ長調(旧全集では第55番)K. 45b(Anh 214) の第1楽章 ミサ・プレヴィス ヘ長調 K. 192 のクレド ミサ曲 ハ長調 K. 257 のサンクトゥス 交響曲第33番 変ロ長調 K. 319 の第1楽章 3つのバセットホルンのための5つのディヴェルティメント K. 439b(Anh 229) 第4番 の第1楽章 ヴァイオリンソナタ第41番 変ホ長調 K. 481 の第1楽章 ブラームスの4つの交響曲の調性を番号順に並べると、同じ「ハ・ニ・ヘ・ホ (c - D - F - e)」となる他、シューマンの4つの交響曲の調性を番号順に並べた場合も「変ロ・ハ・変ホ・ニ (B - C - Es - d)」と変ロ長調でこの音型になることが知られている。 脚注 1^ Kennedy, Michael (1999). Richard Strauss: Man, Musician, Enigma, p. 16, - Google ブックス 2^ 原文は „das großartigste Werk, das ich noch hörte. In der Schlußfuge glaubte ich im Himmel zu sein.“ Steinitzer, Max (2017). Richard Strauss, p. 30, - Google ブックス 4^ レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCD(ASIN B000STC5LU)に付属の渡辺護による解説書より 5^ 『名曲ガイド・シリーズ 交響曲 (下)』音楽之友社、1984年、158頁。

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『交響曲第29番 イ長調 K 201 186a』 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

グィード・カンテッリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1955年5月28日~31日&8月18日録音 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 交響曲第29番 イ長調 K. 201 (186a) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲。 概要 1773年から翌年にかけてモーツァルトは、9曲の交響曲を書き上げた。そのうちの5曲までがイタリア風序曲の形式で作曲されているのに対し、残りの4曲はウィーン風の4楽章の構成がとられるようになった。 この第29番は社交的娯楽的要素の強いイタリア様式を脱却し、後の交響曲へのたしかな成熟を予測させる表現力を備えた作品である。モーツァルトが10代で作曲した交響曲中、第25番ト短調 K. 183(173dB) とこの曲はとりわけ人気が高い。 なお、1774年の4月6日にザルツブルクで完成された。 楽器編成 オーボエ2 ホルン2 弦五部 構成 全4楽章。演奏時間は約20分。第3楽章のみソナタ形式で書かれていない。 第1楽章 アレグロ・モデラート イ長調、2分の2拍子、ソナタ形式。 第2楽章 アンダンテ  ニ長調、4分の2拍子、ソナタ形式。 第3楽章 メヌエット - トリオ イ長調 - ホ長調、4分の3拍子、複合三部形式。 第4楽章 アレグロ・コン・スピーリト イ長調、8分の6拍子、ソナタ形式。