ハンニバル アンソロジー stigmata スティグマータ、聖痕(せいこん) ③ 第3章 ミーシャ
「サーシャ。こっちへおいで。」
リュカに呼ばれた小さな男の子は、彼の元へと走り寄った。
「ここを持ってて、しっかり握って。そうそのまま。」
リュカはうさぎ取りの罠の掛け方を教えた。
「上手く出来た。後はこの場所を忘れないように、印を残しておくんだ。」
リュカはそう言うと小さなサーシャの頭を撫でてやった。
「うさぎはかかるかな?」
サーシャの問いにリュカは、どうかな?と返すと、
「神様にお願いしてみよう。どうかサーシャの罠にうさぎがかかりますように。一緒にお願いして?」
と言われたサーシャは目を瞑るとお祈りした。
「サーシャがうんといい子にしていれば、きっと神様が願いを叶えてくださるよ。」
リュカはそう言うとサーシャを抱き上げて、肩車した。
「さあ家に帰ろう。ママが美味しいスープを作って待ってるはずだよ。」
「お帰り、お邪魔してるよリュカ。」
家に帰るとアナが来ていた。
アナはフィンランドの先住民族のサーミ人だ。彼女は薬草などの知識に詳しく、民間療法をして生計を立てて暮らしていた。
「こんにちは、アナ。どうですか?エレナは何か、重い病気?」
リュカは心配そうにベッドに横たわるエレナの横までやって来た。
「心配ないさ、体調を崩したのは自然なことだ。新しい命を宿すと、多かれ少なかれ女はみんなこうなるもんさ。」
という彼女の言葉に、リュカは驚くと口を開けてエレナの顔を見た。
「妊娠した?僕らの子を?」
リュカの言葉にエレナは笑顔を浮かべると、ええ、そう。私たちの子どもよ。と返した。
喜び抱き合う二人の姿にアナは呆れると、
「大袈裟だね。まるで初めての子が出来たみたいに、あんた達にはすでにサーシャがいるだろうに。」
サーシャの父親がリュカではないことを知らないアナは不思議そうに二人を見ていた。
「おいで、サーシャ。ママに祝福して。お前に兄弟が出来るんだよ。」
リュカはサーシャをエレナのベッドまで呼び寄せると、彼を膝の上に抱き上げた。
「本当に?やった!弟?妹?」
そう聞いてくるサーシャの頭を撫でて笑うと、
「まだ分からないんだ。サーシャはどっちがいい?」
サーシャは悩んだ末に、弟がいいな。と答えた。
「弟なら、パパと僕と、三人で狩りが出来る。」
リュカはサーシャの答えに笑うと、そうだね。と返して、パパは女の子がいいな。と言うと、
「女の子なら、きっとエレナによく似た、綺麗な子になる。」
そう言うとリュカはエレナの手を握った。
「ミーシャの誕生は、二人にとっては希望の象徴だった。
二人の愛が形になって現れたのがミーシャだからね。
特に母にとってはミーシャは思い入れが強い子どもだったようだ。
女の子を何人も産んで、全て死なせてしまった自責の念があったからかもしれない。
それに母は私の存在を恐れていた。」
そう話す彼に僕は、何故だ?と聞いた。
「私が実の父親との子どもだからだ。ミカイルは非常に冷淡で、残虐なことを好む人物だった。
母はその父の性格をよく理解していた。
私の中に、ミカイルの血のなせる片鱗が見える時、彼女は私を嫌悪の目で見てきた。」
確かに、私の中にはミカイルの血が流れていた。
時おり私には、残虐な面が現れることがあったのは事実だ。
だが父はそれをあまり気にしていなかった。
男の子には、ある年齢までは、そうした残虐性があるものだ。と、彼は考えていたようだった。
ある時、産まれたばかりのミーシャを私が抱いてあやしていると、ぐずったミーシャが酷く泣き出したことがあった。
私が立ち歩きながら部屋の中でミーシャを抱いてあやしていると、泣き声を聞きつけた母が外から飛んで来た。
「何をしたの⁉︎」
恐ろしい剣幕で母は私の手からミーシャを奪い取った。
「何も?何もしてないよ。僕はただあやそうと思って、」
そう答える私を、母は訝しむように睨んできた。そんなことが何度もあった。
「母さんは僕のことが嫌いなのかな?」
父と二人で街まで買い出しに行く途中の道中で、私は父にそう問いかけてみた。
「何を言ってる?そんなわけないだろう?母さんは産後の体調が戻らなくて、少し神経質になってるだけだよ。気にするな。」
そう父は返すと、大きな手で私の頭を撫でてくれた。
そう懐かしそうに話す彼の横顔に、彼が父親のことをとても慕っていたことが伺い知れた。
「あなたの名前だけど、なんでサーシャなんだ?ミドルネームか何かなのか?」
僕がそう聞くと彼は、
「父が私に付けた名前は、アレクサンドルだからだ。アレクサンドルは愛称がサーシャになるんだよ。」
そう答えた彼に、じゃあ今のハンニバルって名前は?と聞くと、
「それは祖父が付けた名前だ。アレクサンドルの名前は祖父に捨てさせられた。
私がサーシャと呼ばれて過ごした時間は、ほんのわずかな間だけだった。」
そう話す彼は、どこか寂しげだった。
「僕が呼ぼうか?外ではハンニって呼ぶのは気がひけてたんだ。あまり無い名前だし、そう呼んで人に記憶されるとまずいしな。」
そう言うと彼は僕の顔をじっと見てきた。
「サーシャ?」
僕が彼をそう呼んでみると、彼は何とも言えない、寂しさと悲しさが混ざったような眼差しで僕を見つめて微笑んだ。
「嫌なら呼ばないよ、悪かった。」
呼んでみて、彼の反応を見てすぐに後悔した僕は彼に謝った。
「いや、嫌ではないよ。ただ、あまりに久しぶりにその名前で呼ばれたから、少し戸惑ってしまった。
私の中で、その名前は捨てた名前だと思っていたが、君に呼ばれてみて、まるで昔に戻ったように感じたよ。」
と返すと彼は、ありがとう。と小さく呟いた。
礼を言われるなどと思ってもいなかった僕は何と返していいのか分からず、どういたしまして。と返すと、彼は僕の言葉に小さく笑っていた。
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