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ハンニバル アンソロジーstigmata スティグマータ、聖痕(せいこん)④ 第4章 ムラサキ


 彼の発した言葉に、食卓に沈黙が流れた。
 「・・・神って?あの神のことか?」
 僕がそう聞くとハンニバルは笑った。
 「そうだ。神だよ。馬鹿なことを言っていると思うだろうね、なにせ私が一番信じていなかったからな。
 だがミーシャに起こった出来事は説明の仕様がないことばかりだった。
 彼女のおこした奇跡を私は何度も目撃した。」



 ある時、孤児院の庭先に一羽のカラスが死んでいた。
 カラスは死んで数時間かもしくは数日が経過していたように見えた。
 深夜の寒さで凍りついた死骸を、庭掃除をしていた子どもたちが箒で突いて遊んでいた。
 それを見るとミーシャは黙ってカラスの元に歩み寄り、抱き上げた。
 子どもたちは汚いと言ってミーシャを避けた。
 ミーシャが腕の中にある死骸を数回撫でると、カラスは息を吹き返した。



 「その場にいた数人の子どもたちがその光景を目撃した。
 ミーシャがカラスを空に放つと、カラスは何事もなかったように飛び立って行った。」
 私もそれを見ていた。信じられない思いでミーシャを見つめて言葉を無くしたが、思えば以前から彼女の周りには不思議なことが幾度となく起きていた。
 偶然だとしか思っていなかった私は、それらの出来事が全てミーシャの周りだからこそ起きているのではないか、と思い始めた。
 彼女に何が起きているのかは分からない。だが、注目を集めることは避けるべきだと考えた私は、ミーシャにこのことは秘密にするように教えた。
 「なぜ?何を秘密にするの?イエス様が居て、ミーシャが彼と話していること?
 何をそんなに恐れているの?」
 そう聞いてきた彼女に私は、
 「いいか、僕らは悪い奴らから逃げているんだ。父さんと母さんは悪い奴らに見つかって殺された。だから僕らも奴らに見つかったら殺されるかも知れないんだ。
 ミーシャは僕が死んだら嫌だろう?」
 と言うとミーシャは私に抱く付くと、
 「嫌!ミーシャをひとりにしないで。」
 と言って泣き出した。
 私はミーシャを抱きしめてやると、
 「大丈夫だよ、僕はどこへも行かない。僕らはずっと一緒だ、お前のことは僕が守る。何も心配いらない。
 だからお願いだ、ミーシャ。イエス様とのことは僕とお前だけの秘密にして?いいね?」
 と言うとミーシャは僕を見上げて頷いた。



 そんなことがあった数日後のことだった。朝目覚めるとミーシャが私のベッドの脇に立っていた。
 「どうした?何かあったのか?」
 と聞くと彼女は、
 「もうすぐ迎えが来るよ。早く着替えて。」
 と言って私を急かしてきた。
 一体何の迎えだ?と聞くと同時に修道院長に続いて数人の男達が部屋に入って来た。
 私はミーシャを後ろに庇うと男達を見た。
 数人並んだ男達の後ろからゆっくりと足音が聞こえてきた。
 脚を引きずるようにして、杖をつく音をさせながら近づいてきたその足音の主は僕らの前まで来ると止まった。
 「ようやく見つけた。よくぞ無事でいたものだ。確かに、お前はエレナによく似ている。」



 私とミーシャは着替えさせられると応接室の中で待っていた。
 修道院長と祖父は、続きにある執務室で引き取りに必要な書類にサインを交わしているようだった。
 こっそりと様子を見に来た仲間の子どもたちに私は小声で話しかけた。
 「例の録画記録と、データの入ったフロッピーは今どこにある?」
 私が聞くと彼らは首を振った。
 「誰かが奴に全ての証拠品を売ったんだ。あれが無いと俺らはどうなる?何か他に証拠になるものは無いのか?なぁ、どうすればいい?サーシャ!」
 証拠品を手にした修道院長は私たち兄妹を厄介払いする必要があったんだ。
 それまでにも祖父の差し向けた捜索人が、私たち兄妹のことを探りに来ていたのだろう。
 だが証拠を掴まれている間は連絡出来ずにいたんだ。
 「ユーリだよ。奴が裏切ったんだ。客に貰ったと言って、僕に金の腕時計を自慢して見せてきた。絶対あいつだよ!」
 子どもたちが口々にユーリを罵る中、私は逃げ場のない状況に親指の爪を噛んで必死に考えていた。
 大丈夫だ、何とかなる、いや、どうにかして逃げればいい。今は大人しく従うふりをしておいた方がいい。道中に機会が訪れるのを待つんだ。
 「心配しないでサーシャ。大丈夫。殺されたりしないわ。あの人はおじいちゃんだもの。」
 ミーシャがそう言った直後に応接室のドアが開いた。


 「いつの間に入った?さあ出なさい!お前たちは授業があるだろう!行きなさい!」
 修道院長に急かされて、子どもたちは仕方なく部屋を出て行った。
 彼らは最後まで私に縋るような目を向けていた。
 証拠を奪われた後に、彼らにどんな仕打ちが待っているのか、私には知る余地もなかった。



 私とミーシャは連れ出されると祖父と一緒に車に乗せられた。
 私たちの両脇には男たちがそれぞれ乗り込んで来た。
 「あなたは誰で、僕らを何処へ連れて行くつもりなんだ?」
 私が祖父にそう聞くと、
 「エレナから何も聞いていないのか?まぁいい。詳しくは着いてから話す。」
 と祖父は言うと、両脇にいた男たちに顎をしゃくって何かを指示した。
 男たちは私たちを押さえ付けると何かの布を口に当てがってきた。
 「ッ!何をする?はなせ!」
 と言って私は抵抗したが、鼻から入ってきたツンとする匂いに頭がぐらりとして気が遠くなってきた。
 「心配ない、単なるクロロホルムだ。途中で逃げ出されては敵わんからな。」
 着くまでゆっくりと寝ていなさい。と祖父が言う言葉を最後に、私は意識が途切れた。


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