マーシーの芽胞

会社の後輩に可愛らしい男の子がいる。
素朴で屈託がなく、仕事に対しても真摯に臨む。
前向きで、結婚への憧れもあるという。人を疑わない。最近犬を飼い始めたという。

『オォオ…!』と思う。
彼と接する度、私は『オォオ…!』と思う。
他になんとも形容し難い、オォオ…!が胸を塞ぐのだ。

いや、彼を汚らわしい目で見ている訳では、断じてない。可愛らしいが、そういうのではない。
日々少しでも手を抜いてやろうというスタンスの、こと仕事に関して特に卑怯で姑息な私も、彼の曇りのない眼に当てられて、オォオ…!となると、思考が鈍く麻痺し、柄になく頑張ったり無理をしたりするのだ。
この働きは何とも解せないと長く考えていたが、今ふと思うに、これ庇護欲や母性に近いのかしらん?
ああなんかヤだな。子のない女の母性って、何とも言い難い禍々しさが底の方に沈殿している気がする。いやいや、この話は止めておこう。怒られる。

そんな彼が先日仕事中の雑談で、自身のYouTubeチャンネルについて語っていた。
「ピアノ演奏の動画が、プチバズりしたんですけど、それからぼちぼち上げてるんです」
それから彼はその曲目、アイコンが最近飼ったワンコである事や、最近飼ったワンコの名前を教えてくれた。
オォオ…!と思いはしたが、チャンネル名やアカウントを尋ねる事は差し控えた。内心ではちょっと聞いて欲しいのか、そこまで踏み込んで欲しくないのか、その語り口や表情から読み取ろうとしたが上手くいかなかった。
そもそも彼からは心の2層目3層目が感じられないので、私の巡回プログラムはエラーを起こす。そしてあの何とも言えぬ『オォオ…!』が塞ぐのである。
ちなみに私の件のプログラムは、真っ先に地層を掘り返し始めるようになっている。往々にして的外れな邪推の原因になる事の方が多く、そう優秀ではないのだけれども。

家に帰り、ソファーに腰掛け、7分で作ったまあまあ美味い焼きうどんを食べながら、いつもの様になんとなくYouTubeを起動して、思考停止した時を過ごしていた。
昼に彼が言っていたプチバズリした曲目は、有名なゲームの曲であり、私も口笛で未だに吹いちゃう位には好きだったので、久しぶりに聴きたくなり、何とはなしに検索ワードを入力してみた。

あ…これ…もしかして…
可愛らしいタレ耳子犬のアイコン。ご丁寧にワンコの名前がアカウントコメントに記載されている。

いやいや、良くないよ。良くない。
いや、でももしかしたら違うかも知れないし。
それに、正直気になる。どんなもんなの。
そもそもYouTubeに上げてるってことは、ねぇ?
見ても良いよ!!って事だものね。

私は一旦アカウントからログアウトし、ゲスト状態で改めて検索ワードを入力する。

思った通りと、思ったよりも上手と、丁度間位のクオリティのピアノ演奏。そして愛くるしいワンちゃんと遊ぶショート動画に、沢山のゲーム実況のアーカイブが並んでいた。
オォオ…!彼だ…! 

私はそっとアプリを落とし、皿を流しに置いて、水出しのルイボスティーをコップに注いだ。

何故こんなにドキドキしているのだろうか。
人のプライベートを匿名性を保ちながら覗くという行為には、何故このような悪性か良性か解らない高鳴りがあるのだろうか?
いやこれ悪性か!悪性だよね?
でもYouTubeに公開してるんだし、プライベートでは無いよね?
じゃ何で私はログアウトしたの?!
明日、YouTube観たよ、上手だね!って言う?!
いや、言わんでしょう?!
なぜ?!
なぜこんなに胸が悪い意味で高鳴るの?!

覗きや盗撮の事件をニューストピックスで見かける度、今は無料でどんなキレイなお姉さんの裸も見られるのに何でかなぁ、などと思っていたのだけれど…
…こういう事なのか…。

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