Mother
時々、さだまさしさんの曲を無性に聴きたくなることがある。
特別、ファンというわけではない。
それでも有名どころの曲は、結構知っている。
『精霊流し』とか『関白宣言』とかの代表曲というべき曲はもちろん、『無縁坂』とか『主人公』とか『雨宿り』とか『フレディもしくは三教街』とか『道化師のソネット』とか。
小さい頃、母はよくラジカセでさださんのカセットを聴いていた。
母は、さださんの曲が好きだった。
洗濯物を畳むとき、草むしりのとき、針仕事や台所に立つときも、いつもそこにさださんの曲が流れていた。
その所為かごく自然に、さださんの楽曲が僕の頭にも刷り込まれていた。
前述した曲は全部、その頃にラジカセから流れていた曲。
大人になって改めて聴くと、子供の頃はメロディに乗っただけの言葉として聞き流していた歌詞が、深い意味を持って聴こえてくる。
そういう経験は、音楽ではさださんの楽曲が一番多い気がする。
これもひとつの母が遺してくれた財産なのかもしれないな、と最近思ったりする。
母は、駄菓子屋の娘として生まれた。
就職後しばらくして、職場で出会った父と早々に結婚し三人の子を産み育てた。
父は活発な親分肌の人で、子供の目から見ても、母は父のことが大好きだった。
今思い返してみても、仲の良い夫婦だったと思う。
父は、僕が高校の頃に行方不明となり、数年後に遺体で見つかった。
父がいなくなった当初、狂ったように泣いていた母は、遺体が見つかってからは、葬儀の席でも、その後の生活の中でも、父の事で人前で泣くことはなかったように思う。
少なくとも、僕は見た記憶が無い。
父がいなくなってから、ほとんど初めて、母は外に働きに出た。
病院の厨房の仕事は、小柄でどちらかというと気の優しい母にとって、肉体的にも人間関係的にもかなり厳しい仕事だったと思う。
それでも「自分で働いてお金を稼ぐ」という事にこだわって、原付の免許をとり、危なっかしくスクーターに乗り、母は10年近く働いた。
兄や姉が結婚し子供が生まれると、母は「お婆ちゃん」として孫たちを可愛がった。
姪っ子とパック旅行に行ったり、日帰り温泉や博物館やら、僕が驚くぐらい活動的に毎日を楽しんでいた。
母にとって孫の存在は、父がいなくなった後の、心の中の空洞みたいなものを埋めてくれる大きな拠り所だったのかもしれない。
そう考えると、結婚もせずにプラプラと過ごしてた僕はつくづく親不孝な息子だった。
ある時、母に癌が見つかった。
同時に膠原病も見つかり、それから数年間、入退院を繰り返しながら、母は衰弱していった。
薬のせいか、せん妄のような状態になった。
ひどい鬱状態になって、食事も全く摂らず、言葉を発さなくなることもあった。
あれはいつだったろう。
兄ちゃんと二人、病院に面会に行くと、車いすに座ったまま母は項垂れていた。
ひどく痩せた肩に手を置いて声をかけると「もう帰って!もう来んで!」と母が叫んだ。
その言葉に、兄ちゃんは固まった。
「そんなん言わんでよ。ほら、あいつも無事に卒業したよ」と姪っ子の写真を見せると、「本当?」と顔をほころばせた。
帰りの車内、母の変わりように動揺して、兄ちゃんは少し泣いていた。
薬のせいだ、病気のせいだ。
そう分かっていても、切なかった。
4年前。
この日の事は、一生忘れないと思う。
十九歳の姪っ子が、二十歳を目前にして悲しい亡くなり方をした。
誰もが呆然として、淡々と進んでいく葬儀の準備に気持ちが追いつかなかった。
入院中の母をどうしようか。
みんなが話を始める。
病気なんやから。
混乱してしまうやろ。
伝えん方が良いよ。
先生に聞いてみらんと。
親族が口々に言った。
「オカンにも伝えよう。ちゃんと葬儀に参列させてあげよう」
言ったけど、みんなから止められた。
初めての孫やぞ。
そう僕は言ったと思う。
ボケてようが混乱しようが、僕らにそれを隠す権利はあるんか。
そう言ったように思う。
大事な孫の死に目に会うのも、病人は先生の許可がいるんか。
そんな事を言った。
年取ったら、大事な人が死んだのを悲しむ権利もないんか。
わざとのように強い言葉で言った。
今思えば、僕も混乱していた。
何が正しかったか、どうすれば良かったか、今もって分からない。
結局、母には伝えることなく葬儀は終わった。
母は段々と、ベッドから身を起こすことも出来なくなった。
あんなに帰りたがっていた家にも、帰れなくなった。
週に一度、面会に行くことが本当は辛かった。
2、30分もない面会の時間が、辛かった。
姪っ子や甥っ子の事を聞かれるたび、何度も嘘をついた。
「元気にしとるけん、安心して。今度連れて来るよ」
来るはずのない今度を、母は待っていたろうか。
あの嘘は、許される嘘だったろうか。
いつか会う時が来たら、全力で謝ろう。
母がまだ意識があった頃の母の日、さだまさしさんの何枚組かのベストアルバムを持って行った。
出来るだけ、昔のカセットに入っていた曲が収録されたアルバム。
どのくらい聴けただろう。
それからほどなくして意識がなくなり、ただベッドに横たわる日々が続いた。
突如訪れたコロナ禍で面会も出来なくなった頃、もう危ないだろうと、少人数での付き添いを許可された。
今日で最後かもなあと、そんな予感がしたから。
「お疲れさん、オカン、頑張ったね」
機内モードにしたスマホで、ダウンロードしておいたさださんの曲を一晩中枕元で流してあげた。
その後、主治医もびっくりするぐらい状態が安定して、結局それから半年以上、母は頑張った。
さださんの曲の効果じゃなかろうかと、いまだに僕と兄ちゃんは思っている。
母にもきっと、何かに夢中になったり、お洒落をしてみたり、親とケンカをしたり、誰かに恋したり、結ばれたり、一人の少女として、女性としての日々があった。
そんな事を考えながら、いつからか僕は、この人に「どう生きてもらうか」というよりも「どう死なせてあげるか」を考えるようになった。
結局、仕事とかコロナ禍とかを言い訳に、何も出来ず仕舞いだったけど。
つくづく僕は、親不孝だった。
まだ元気な頃、たまに僕が帰省すると、母はもっぱら魚料理を出した。
十代の頃、僕はどちらかというと肉より魚が好きだったけど、大人になってからはそんなこともなく、むしろ肉の方が好きになったりしていた。
それでも、なんだか母に言うのが憚られて、母の前では肉が苦手で魚が好きな息子でいた。
僕の唯一の親孝行エピソードだ。
幸せというには、苦しすぎる人生。
穏やかには程遠い、厳しすぎる別れ。
母は決して強い人ではなかった。
それでも、僕が知るどんな人よりも、強く生きた人だった。
今日は母の日。
忙しさにかまけて、帰れなくてごめんなさい。
そういえば、カーネーションなんて買ってあげたこともない息子だったけど、最近は花を贈る相手もいないから、次の休みにでも花を買ってお参りに行くよ。
さださんの曲でも流しながら。
のんびりと、ドライブがてらに。
ありがとう。
あなたの息子で良かった。
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