範馬勇次郎の孤独と範馬勇一郎について

前回、「我以外皆、異性也」から派生した騒ぎに便乗して、武蔵編は傑作だと思うと書いた。

今回は、そこで少し触れた範馬勇次郎の孤独と、その父範馬勇一郎についてあれこれ感想を書く。


まず、範馬勇次郎の孤独は多くの読者が既に理解している通り、この世界には「自分とその他」しかいないという独特の世界観を持っている点だ。

だが正直これはある意味万人に当てはまることだ。自分は自分、人は人。家族であったとしても血の繋がった他人である。例えば他の漫画でもカイジシリーズの鉄骨渡りの時などにも同様の話があるし、例えば漫画ヘルシングにおいてはこの世の闘争の原理はまさに「それ」であるからだと断言している。

では、勇次郎の問題は何か? と問われれば、それは勇次郎に関してはそれが人生の全て、価値観の全てに付随してある点である。


「超雄度」、あるいは「範馬の一族」と作中では表現されているように、範馬勇次郎の認識する世界では、自分と同じ種族の生物が物理的に存在しない。

つまり、勇次郎にとっては思想や哲学のレベルですらなく、物理的に孤独なのだ。彼は人間の姿形をしているだけで、人間を超越した唯一無二の生物。

郭海皇との戦いで、勇次郎は努力や技術は「お前たち、俺以外の全てがやればいい」と切って捨てている。

アライJr.と刃牙の決着の際に、刃牙ですら自身の餌と断言している。

これらの発言からは、勇次郎自身の深い絶望が垣間見える。

すなわちその絶望とは、自分は絶対に孤独である。並び立つものなど存在しない、という孤独を理解している絶望である。

人間を超越している生物ではあるが、人間社会の中で生きていかなければならない。自分を理解してくれる人もおらずはみ出しものとしてしか生きられない。そのせまっくるしさや煩わしさは勇次郎をより深い孤立に追い込む。

しかし、「超雄」である勇次郎には、人に弱みを見せることは死ぬよりも苦痛であるだろう。だから、虚勢(ではないが)、それに近いものをはって自分が常に絶対者であるように振る舞い、弱さを隠そうとする。


ここに関してより深く掘り下げるために、勇次郎の父範馬勇一郎の存在が必要になってくる。


範馬勇一郎は、故人である。

「勇次郎の前にアメリカに勝った男がどうやって死んだんだよ?」と思うがまぁ普通に寿命か、勇次郎が殺したかしたのだろう。

勇一郎についての回想はとても少ないが、その少ない描写からも範馬勇一郎は強かった。ということだけは嫌というほど伝わってくる。


では、なぜそんな怪物がグラップラーの間で伝わっていないのか? 徳川光成ですら、勇一郎の存在はおぼろげにしか知らなかった。

その答えは勇一郎のモデルにある。

範馬勇一郎の元ネタ、もといモデルは木村政彦であることは間違いない。史上最強の柔道家にして、柔道の世界からその名を抹消された男である。近年、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか?」という本のお陰でその存在が広く知られるようになった存在だ。

木村政彦のプロフィールを簡単に書くと、柔道家として名を馳せた後にプロレス王の力道山と共に戦後日本にプロレスを広め、そして力道山によって表舞台から消されてしまった人物である。

範馬勇一郎が木村政彦をモデルにしていることは、「バキ外伝:拳刃」という、若き日の愚地独歩を描いた作品でほぼ確定している。

バキワールドにおける「昭和の巌流島」において、力剛山(バキワールドの力道山)と雌雄を結したのが範馬勇一郎だからだ(拳刃第一話の内容である)。

拳刃では、範馬勇一郎は力剛山にわざと負けている。ボロ負けだ。それを若き独歩が勇一郎に問い詰めると、勇一郎は「銭…貰っちまったからな」と答えている。

その後、愚地独歩は勇一郎に「勝手に仇を討たせてもらいます」と宣言して、地下闘技場で力剛山を秒殺し、「八百長を発表しなければここでのことを世間にバラす」と脅して範馬勇一郎の名誉を護っている。


範馬勇一郎が八百長を受けた理由は、木村政彦が後年語ったことで、「あの試合(力道山との試合)は、妻の医療費を稼ぐために八百長をやった」ということから来ていると考えられる。

昭和の巌流島は、木村政彦を完全に表舞台から消し去った。木村のことを「先輩」と慕っていた極真空手の開祖の大山倍達は、試合直後、「力道! 俺がこの場で挑戦する!!」とまで啖呵を切ったが、結局力道山vs大山倍達は実現せず、大山はその後巌流島を手打ちにした木村に失望し、疎遠になっていった。

これは刃牙を読んでいる人にはもういうまでもないが、愚地独歩のモデルは大山倍達である。

つまり拳刃第一話は、現実では起こり得なかった「木村の仇を大山が討ち、木村が救われるもしもの話」なのである。

しかし、その後のバキワールドにおいての勇一郎の名声を見るに、結局勇一郎は表舞台から姿を消したのだろう。

親子喧嘩の時に勇一郎が現れた時、観戦に来ていた愚地独歩は帽子で深く目を隠している。この時の独歩の心象や表情は例えられないものがあったのだろう。


話を勇次郎の孤独に戻す。


このことから何がわかるかというと、「範馬勇一郎は範馬勇次郎的な強さを持ちながら、人間としての人生を歩めていた」ということだ。

勇次郎自身、父勇一郎のことは「心情も生き方も何もかもが対極に位置する」と述べている。

これは、勇一郎が勇次郎と同じ種類の強さを持っているにも関わらず、勇次郎的な性格、認識が歪んでいないことが読み取れる。

実際に、親子喧嘩に現れた勇一郎は飄々とした態度で刃牙を「ちゃん」付けするお茶目さを見せている。勇次郎では考えられない話だろう。

また、「我が子(刃牙)に手こずる我が子(勇次郎)」とも言っている。ここから、勇一郎も勇次郎と親子喧嘩を行い、手こずった(殺された?)のは間違いない。

優しき巨人を地で行く範馬勇一郎を、勇次郎は疎ましく思っていたのだろうし、そこには勇次郎からすれば「自分(息子)の世界を理解してくれない父親」という風に見えていたかも知れない。

そう思うと、刃牙は勇次郎ではなく勇一郎似であるのかも、とついつい妄想の手が伸びる。

刃牙は初期から人に(少なくとも一般人には)優しい好青年であることは明確に一貫している。

古ぼけたグローブを一緒に磨いたり、バキに置いてもアメリカのブラックペンタゴンで、自分の世話をしてくれた壮年の囚人に優しく接していた。

また、その囚人を虐めていた看守に対し、刃牙自身がいわゆる「わからせ」を行いいたぶったものの、看守が高層から落ちて死にかけた時は我を忘れて助けている。

閑話休題する。


結論として、勇次郎は孤独である。

それは精神的な孤独もあるが、なにより物理的な孤独である。


だからこそ、同じ境遇であったピクルや武蔵に対しては妙に優しかったというか、理解が深かったのだろう。


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