バキシリーズについて

バキシリーズについて。

僕は漫画の刃牙が好きだ。

立体的で動的なアクション、動きの良さや痛みの感触など格闘バトル漫画としては言うまでもなく最高峰だ。

そんなバキシリーズが、先週の「我以外皆、異性也」で色々と騒がれている。

正直「何を今更」と思うことが多いのだが、バキはタフや彼岸島のように、ネットでネタ(ミーム化)しているため、まともに読んでいない人も相当数いるということかとも思う。

だから、今回はネット上では「駄作」の呼び声も高(かった)い、武蔵編の感想を述べていこうと思う。

最初に言っておくが、僕は武蔵編はバキシリーズの中でも飛び抜けて傑作だと思っているので、その理由とか、なんでネットでバカにされやすいのかなどもまぁ考えてみる。

まず、武蔵編がなぜ駄作かと言われる1番の理由は

・「武蔵の行動原理がわからない」

・「行き当たりばったりの展開」

・「既存キャラへの扱い」

あたりがよく挙げられているのをみる。

正直行き当たりばったりの展開に関しては反論できない。これは板垣先生自身、編集との打ち合わせでも「展開(ストーリー)は決めない、キャラを決める」という、小池一夫劇画塾時代から一貫している創作姿勢だそうだからだ。

小池一夫先生も、「漫画とはストーリーではなくキャラクター」という思想の持ち主であったそうで、多少の矛盾は気にしない。その時の面白さやキャラのオモシロさがぐっと有れば良いのだろう。

さて、ではバキに出てきた宮本武蔵のキャラクターはどうだろう?

結論から言うと、説明不足である。

現代に伝わる宮本武蔵の一般的な話は吉川先生の小説作品(バガボンドの原作でもある)である。ちなみに青空文庫で無料で読める。

また武蔵の武技に対する哲学は「五輪書」という形で幾度も書籍化されている。

近年……と言うほどでもないか、キムタクが演じた宮本武蔵のドラマの放送などもあった。割と宮本武蔵の大筋はいろんな人が知っていると思う。

しかし、多くの人は宮本武蔵の哲学(つまり五輪書)の内容までは知らないと思う。

バキの中での宮本武蔵の説明は

「大昔の剣豪」

「最強の始まりとなった男」

「武の先人(神さま)」

「オールタイムナンバーワン(つまり史上最強者ということ)」

一応、愚地独歩の語りで五輪書のことがチラリと触れられていたり、武蔵本人の口からも少しだけ本人の背景が語られている。

察しの良い人はもうオワカリだろうが、バキにおける宮本武蔵は説明不足である。

宮本武蔵がバキたちグラップラーと比較して、いかなる哲学を持って武に臨んでいるかははっきりと作中で説明されていないのだ。

一応ちゃんと読めば「こうかな?」と仄めかす程度には説明されている。しかし、このバキ版宮本武蔵は明らかに(意図的に)説明が足りていない。

だから、本部がいわゆる「守護キャラ」になった経緯や、警察官を突如虐殺し始めた理由、徳川さぶ子のキスでの昇天、そこに至る経緯などがまるでわからないキャラになってしまっている…のだと思う。

二度目の結論を言うと、板垣先生は「宮本武蔵」像を読者の教養に頼りすぎている(いた)のだと思う。

実際、吉川版宮本武蔵や五輪書を読んでいる身からすれば、或いはそこから「宮本武蔵という人となり」をたびたび空想している身からすれば、バキ版宮本武蔵の行動理念というか、言動は作中で終始一貫していると理解できる。

宮本武蔵というのは、剣の時代が終わりかけていた時代に、剣で成り上がろうとした人物である。

世の中は既に太平に浸り、侍の威厳がドンドン失われていく時代になる。戦場に置いても鉄砲や大砲が主武器となっていき、幕末にはガトリングガンすら実践の場で使用される(この辺りのより詳しい件は新撰組のあれそれを勉強するとより一層理解が深まると思う)。

そして、その時代の中だからこそ、武蔵は満足に生きることができなかったのでは? と僕は思う。

剣によって名声を得て成り上がったのはそうだが、武蔵は大した軍功をあげていない。晩年には島原、天草一揆にも駆り出されたが石礫に撃退されたという話もあるぐらいで、そもそも武蔵の人生で大掛かりな「いくさ」というものがしょっぱなの関ヶ原ぐらいである。

これは作中でも本部や刃牙に指摘されていたが、武蔵は孤独だったのだ。

現代でも、もともと生きていた時代ですら。

これは、現代に蘇った原人のピクルにも同じことが言えるし、範馬勇次郎にも同じことが言える。

劇中、武蔵と食事を共にし、会話を楽しんだのはこの2人だけだ。あとのグラップラーは本部を含めて、武蔵の悪魔的な強さを試したい、その悪虐ぶりすら見てみたいと戦いの道へ誘ってしまっている(これも、刃牙の口からはっきりと述べられている)。

特にピクルとは警官と──というより、国家権力と戦う前に武蔵から話をしに行っている。

武蔵は、同じ孤独を持つものとして、ピクルと話覚悟を決めたかったように思うし、癒されたかったのだと思う。

なぜかというと、武蔵自身、国家権力に勝てるとは本当は思ってなかったように思えるからだ。

武蔵は剣の時代が終わりかけていた時代を生きた。しかし、現代における剣と人との距離感はその当時の比ではない。武蔵は街中をぶらついて、現代の超技術を目の当たりにした。

それだけなら、まだ救いはあったが、そこで範馬勇次郎と、本部以蔵という、現代闘士にして武蔵と同じ価値観を共有できる2人と出会い、武蔵ははっきりとこの2人に否定されてしまう。

つまり、自分は現代では生きられない、居場所がないと。

徳川邸から出るときに、武蔵は徳川光成を抱きしめて、感謝を述べている。

あのとき、覚悟は決まっていたのだろう。愕然とする光成自身、それを肌で感じ取ったのだと思う。

そこからは、武蔵はもうヤケクソである。

その末路(というかオチ)は、さんざ殺戮を繰り返したのちに、さぶ子による昇天だ。

何が言いたいかというと、バキシリーズにおけるこの武蔵編は、「宮本武蔵が現代に蘇ったら?」という、パルプフィクションでありがちな話をしっかりと描いている、ということだ。

突拍子もない展開や、突然の虐殺展開なども、「宮本武蔵」という1人のキャラクターを現代社会で描くならば、避けられないものだったのだ。そして、板垣先生はそれを真っ向から描いてみせた。

だから、僕は武蔵編は傑作だと思っている。

宮本武蔵を題材にした話、キャラクターは多いが、その中でもここまでまっすぐに宮本武蔵そのものを抽出し、作家の味でアレンジして描き切った人は中々いないのではなかろうか。

板垣先生はメディアミックスでありがちな宮本武蔵の強さではなく、弱さも描き切っている。

しかし、実に曲者すぎる。作品自体がだ。


ちなみに僕は宿禰編も楽しく読んでいる。

というのも、古雑誌屋でたまたま見つけた相撲雑誌に宿禰編が始まったばかりの板垣先生のインタビューが載っていて、「なぜ今相撲を描こうと思ったのか」という誰もが考える疑問に対して明確な意図があったことを僕は知っているからだ。

まぁそれはそれとして、バキシリーズは一貫したテーマと、語りきれない裏設定があるんじゃないかと深読みせざるを得ない。



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