18歳の屍を抱く6歳

18歳ときに1度死んだことがある。
精神的死。
俺は、死を自認した。
自分は死んだと。

人間誰しも、こうすれば生きやすいと言われるものに手を伸ばす。
中学、高校、大学、入社、昇進、結婚。
一向に状態は良くならない。
俺は、積み上げてるのか積まされているのか、わからなかった。

塔のように積み上がるほどに、鋭くなって、心を刺してくる。

心には虚無感だけが常にいる。

もう一段積み上げたから壊れたのか、土台から蹴って壊れたのか。

ただ、一体なのために積み上げた塔なのかもわからないから、いっそのことなくとも等しい。

むしろ、がんじがらめに支配された虚無感より、まっさらな虚無感の方が幾分ましかもしれない。

そうして俺は、死んだ。

肉体の死ではないから当然、実体の自分は存在している。
無意味にこの世に生まれる赤子と同様に、俺も無意味に、ただ、居た。

無意味に存在してしまったが故に、意味を探す他ないという自我だけはあった。

そうして6年が経ったけれど、結局意味なんかはなかった。
意味はもうすでにどこかにあるものではない。

俺のニヒリズムやペシミズムのような思想が揺るがないことも悟った。
根底には、虚無感があって、無意味がある。
それは18歳で死んだ俺の屍に他ならない。

これはニーチェの受け売りに過ぎないけれど、
「たった一度でいい。本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する。」

救いを求めて何かを信じてみることは、生きている以上、避けては通れないんだろう。

ただ、「価値や意味があるか?」という問いこそ無意味なのかもしれない。
心に充足感や高揚感が生じるとすれば、それを意味とか価値で判断するのは野暮な気がしてきた。

五感で受け取ったものを宝物のように。
感じたものを感じたままに悦べたら。
そういう瞬間を逃さない鋭敏な感性を大事に育めたら。
自分の根底にある虚無感を救ってやれるんじゃないだろうか。

今こうして、自分を救ってやろうと考えられるのは、あの時救ってあげられなかった18歳の自分がいるからだ。
死んだあいつは虚無感となって俺はまだ抱いている。
取り憑く呪いではなく根底にある性に近い。
だから、あの時にもっとこうしていればよかった、なんていう過去はない。
逆に過去を突き放すような突飛な未来が待っているという増長もない。

それでも、あの時積み上げようとした、見栄えだけの塔はやめて、小さく何箇所にも積み上げていけば、前より小さいけど、ずっと賑やかで、豊かな街になりそうだ。

価値はないが生きるには値した。
そう思える場所で18歳の俺の屍を埋めて、俺もそこに墓を立てよう。

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