功利主義を再考する

倫理学とは一般的に「どうすべきか」・「どうすべきではないか」・「どう生きるべきか」等人間が生きていく上での規範(ルール)や行為の善悪について探求する学問であるとされている。しかし法律以上に人間が従わなければならない規範など存在するのだろうか。善悪の判断なんて相対的なものなんじゃないか、と思う人もいるだろう。そもそも人に対してああすべきだこうすべきだと指示するのは高慢な態度の現れであり、干渉的でありすぎる、倫理学はどうしてこうも上から目線なんだろうと思ってしまう人もいるかもしれない。

かく言う私もその一人である。しかし倫理や道徳が法の根拠となっているのも事実として認めなければならない。そうでなければ法律に殺人が禁じられているのは法律で決まっているからという捻くれた中学生みたいな理由が正当化されてしまう。

ところで功利主義という言葉を聞いたことはあるだろうか?

功利主義は規範について考える規範倫理学における1つの主張である。イギリスの思想家ジェレミ・ベンサムによって体系化された。功利主義の歴史についてはまた別記事にしたい。

功利主義を端的に言えば「人の行いの善悪は、その行為がもたらす結果によって決まる」という主張の事である。盗みが悪事なのは、盗まれた人が損をするからである、といった考え方をする。

いやいや、盗みが悪なのは純粋に、自然にしてはいけないと決まっている(行為の結果に関わらず決定されている)、という主張をする人もいるかもしれない。こちらに似た考えとしてカントが主張した義務論というものがある。はっきりいうと難解な表現や言葉が羅列されていて理解しづらいのだが、「どんな状況であっても誰にでも(自分自身を含め)行う事が出来る事を、誰しもが持ち合わせている(とされる)理性により導き出して、それを行為の規範とせよ」という主張である。

初めに申しておくが、私はこの考えに全く賛同しない。あまりにも現実に即していないからである。義務論に従えば善悪の基準は万人に共通であり、故に善悪の判断が人によって、時間によって変わるということはあり得ないはずである。しかし善悪の判断が個人の思想や状況に依存しているという事は歴史を振り返ればほとんど自明であろう。仮に理性による判断をしていないから間違った考えが生まれるという反論がなされたとしても、理性とは何なのか・どのような考えが理性的であるか、という事について義務論では多くを語ってくれない。

話は変わるがトロッコ問題という言葉を聞いたことがあるだろうか。

線路上を走っているトロッコが暴走してしまい、このまま進むと線路上にいる5人の作業員が轢かれて死んでしまう。トロッコの進む先には分岐器があり、もしあなたが分岐器を切り替えれば5人の作業員は助かるが、今度は分岐先に1人の作業員がいて、その人が轢かれて死んでしまう。さて、あなたはトロッコの進路を変えるべきか?変えるべきではないか?

という割と有名な話である。

この問題に対する回答はその人の思想によってまちまちだ。運命に身を任せてそのままにしておくべきだという考え方もあるだろう。しかし多くの人は特段に条件がなければ5人を助ける、という選択をするのではないだろうか。これは単に1人と5人、同条件で比較すればより多くの人を救える方を選ぶという合理的な説明付けが出来る。

特段に条件がない、というところが要だ。もし5人を助けた場合に亡くなってしまう1人が自分にとって大切な人であったなら、申し訳ないけれども5人のことは見捨てる、という選択をする人は先ほどの例と比べると増えるのではないだろうか。この場合、5人を助けることによって得られるものよりも親しい1人を助けることによって得られるものの方が大きいと判断する人が多いからである。

以上の例から我々人間は何かしらの前提、そして行為によって予想される結果によって行動を決定していることが見えてくる。このことは別にトロッコ問題を通さなくても自身が行っている日常的な行動を振り返れば予想がつく。雨の中出掛ける時には濡れないために多少手がふさがっても傘をさすだろうし、喉が渇いていれば多少高くても近くのコンビニや自動販売機で飲み物を買うだろう。

…?行為の結果によって自分自身の行動を決めるというのはまさしく功利主義的な思考ではないだろうか。

さて、これらを踏まえて私は

「つまるところ人間は皆程度の差こそあれ功利主義者ではないか」

という事を主張したい。

それが真実なのかはまだ分からない。けれどもおかしな点も見当たらない。それどころか功利主義的に人間を見つめることで心理的な、精神的な諸問題に対する答えや倫理学の言う人がすべき行為、善悪の判断について合理的な理由付けが出来るかもしれないのだ。ただし現状の功利主義は不十分な点がいくつも存在し多くの批判を受けてきた。私はこれらの点を修正し、また時には再定義して体系化をしてみたいと思う。

・功利主義の概要

功利主義は一般に

「行為の望ましさは、その行為の結果がもたらす効用によって決定されるという考え方である」

と表現される。これをもう少し詳しく掘り下げていきたいと思う。(なおこれ以降登場する功利主義という語には現在の功利主義の体系に加え私の見解が多く含まれている。あくまで私個人の考えなのでそこについてはご了承願いたい。)

まず”望ましさ”が誰の観点からなのか、という疑問が浮かんでくる。功利主義の提唱者ベンサムを初めとした多くの功利主義者は社会的な観点から功利主義を考えていたので、”望ましさ”とは一般に”社会的な望ましさ”を指すだろう。しかし、先の例では全て”個人的な望ましさ”について取り上げていた。人間が皆功利主義的であると仮定するのならば当然個人的な観点からの望ましさというのも考慮する必要があるだろう。その意味で私は功利主義を個人に対しても適用させ、社会における諸問題を解決する道標としたいと考えている。

次に”効用”という言葉が気になる。効用とは何だろうか。経済学では「個人がモノを消費したりして得られる主観的な満足の度合い」と定義されているが、ここではもっと広い意味でこの言葉を考えたい。多くの文脈では効用という語は功利主義における”功利”、すなわち利益や利得を指すことが多い。功利というのは何しも金銭的なものには限らず社会的な価値のあるもの、主観的に価値のあるものを内包している。ただし効用という言葉には先ほどの利得という意味に加え損害、負の利得とも言うべき概念も含めた方がより広い範囲で物事を考察することが出来る。つまり効用とは「価値によって決定される損得」と捉えると良いかもしれない。

ただそうは言ったところで効用と価値の関係については良く分からないし、功利主義が己の利益になるかならないかで行動する利己主義であるかのように思えてしまう。実際、功利主義と利己主義を混同している人はかなり見受けられる。これについても述べる必要があるだろう。

・効用と価値

先ほど効用とは価値によって決定される損得と表現した。具体的な話を考えてみよう。

例えば100万円を貰ったとする。この時我々はどれくらいの効用を得るのだろうか。100万円分得をするのだから100万円分の効用を得るに決まっている、何を可笑しいことを聞くのか、と思うかもしれないが少し待ってほしい。100万円には100万円の価値がある。しかし100万円を貰った人が裕福な人であった場合と貧しい人であった場合、その人が得る効用というのは同じであろうか?

効用には主観的な価値も影響を及ぼす。何億円もの資産を持っている人から見た100万円と比較すると、貧しい人は100万円を100万円以上の価値があるかのように感じるだろう。すなわち同じ価値のあるものを得たとしても、主観が入り混じるが故にその人が得られる効用というのは全く異なってくるのだ。

価値は日々変化していく。客観的に、定量的に価値が決まっている通貨でさえ為替レートは変動している。ましてや主観的に決定される価値など言うまでもない。ただ価値が主観的なものであるか、客観的であるかによってその取扱いを変える必要がある。ここでは客観的な価値というのはパラメータのようであり、主観的な価値というのは客観的な価値を引数とした関数のようなものであると考えてみる。パラメータの値は万人に共通しているが、その変換の仕方によって個人が得られる効用は多岐に渡る、という具合になる。このようにすることで「効用とは客観的な価値のある物を主観に変換して決定される」と表現することが出来る。

効用と価値の関係性が見えてきた。しかしまだ問題は山積みである。一番重要な問題としてこの仮説は果たして正しいと言えるのかという疑問も出てくる。

この説、もとい功利主義の正しさを保障することは数学の諸定理と違って難しいかもしれない。たとえ数式を用いて効用について記述したとしてもそれを証明する手立ては今のところ存在しない。しかし今は功利主義が人間の行動原理たることを自然に説明できれば十分であろう。それは経済学をはじめ他の社会科学・自然科学分野においても同様であったからだ。

・利己主義との違い

功利主義という言葉は利己主義とも言い換えられ、どちらかというとネガティブな意味で使われる事が多い。特に新自由主義者への批判として用いられるように思われる。確かに功利主義と利己主義には大きな違いがあるようには思えない。

実際のところ利己主義も功利主義も最終的には自分が得られる効用というものを意識している。だが功利主義と利己主義は異なる点がある。利己主義は自分が直接得られる損益だけしか考えないところがある。しかしそれでは他人の為には自己犠牲さえ厭わない利他的な人が存在することを説明できない。一方で功利主義は利己主義よりも主観的価値をより重視する。利他的な人は他人が幸せになることに大きな価値を持っている人であるとすれば、彼らに対しても功利主義を十分に適応することが出来るだろう。

利己的な人もいれば利他的な人もいる。ただし人は皆功利主義者たるのだ。この仮定を元に次回以降も功利主義についてより深く取り上げていきたい。




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