さる

猿では流石に分からない?フェミニズムの実態

楼磨である!(挨拶) 今回初めてノートなるものを書いてみたので是非暇な時にでも読んでみて欲しい。あ、タイトルは適当です( ̄▽ ̄)ノ

今回は巷で話題の宇崎ちゃん献血ポスター批判問題を考察していく内に、自分の中で解答と言えるものを見出したのでそれを書いていこうと思う。

この問題を考察するにあたり、まずそもそも性的とは何か、それは悪い事なのかという根本的な話をしなければならない。まず性的の前に性別を当て嵌めて見て欲しい。男性なら男性的、女性なら女性的となる。では男性的、女性的とは何か?男らしい、女らしいという事だ。

では次に、フェミニスト連中から度々性差別などと批判される性的強調に話を移そう。先程のように性的強調に性別を当て嵌めた場合、女性的強調と置き換える事が出来ると思う。では女性的強調とは何か?女性の身体的特徴、仕草、性格、言動を強調した描写が思い浮かぶ筈だ。

そういった女性的表現は一般的にセクシー、エロと評される。ではそういった表現、描写をする事はそもそも悪い事なのか?考えてみて欲しい。なぜエロに興奮するのか?その対象に対して性的興奮するほどに魅力を感じるからであり、その結果が勃起という生理現象なのである。そしてそこに至る価値観、判断基準は千差万別であり、明確な判断基準は存在しない。下着だけでハアハア興奮する変態もいれば単なる布としか思わない人もいるという事だ。

問題があるとすれば、それは性的興奮した個人の行動であって、異性を魅力的に表現、描写する事それ自体には無論問題も差別性も無い。例えばフィギュアスケートの演技にハアハア興奮した変態が犯罪を犯したとして、それはフィギュアスケートの演技が問題なのかという事だ。
だが一方はフェミニストから性的搾取、性差別などと問題視され、もう一方は健全とされる。なぜこのような違いが生じるのだろうか?その答えはフェミニストの掲げる主張自体にあった。

フェミニストは常日頃ジェンダーロールからの解放を唱えているが、その実態はアンチジェンダーの強制に他ならない。つまり件の宇崎ちゃんポスターに対する『環境型セクハラだ!ゾーニングするべき!』というフェミニスト側の要求は、その実アンチジェンダーという価値観の強要だったのだ。

その根拠として、フェミニストの主張する性的搾取、性差別表現には男性的表現は含まれない。それどころか推奨する節がある。胸の大きさ、強調に対する批判はそれが女性の身体的特徴の中で最も女性らしい特徴だからであり、頬の赤みに対する批判もやはり同様に女性らしい、つまり『女』性的だからというわけだ。

これなら度々批判に挙がる下がり眉、ボディーライン等に対しても説明がつく。要はそれが女性らしい仕草、表情の特徴で『男らしくない』からだ。これは件の献血ポスター批判だけでなく、これまでフェミニストの行ってきたあらゆるマンガ、アニメ、映画等に対しての批判にも同じ事が言える。

これまでフェミニストが行ってきた批判と批判内容を思い返して欲しい。全て女性らしい性格、身体的特徴、表情、描写とされて来たものに対する批判では無かっただろうか。成人雑誌は言わずもがな、えきのみちか、ゆらぎ荘、ラノベ表紙、キズナアイ、グラビア表紙ときて宇崎ちゃん。これらに対する批判には全てその要素が含まれている。先にも言った通り、フェミニストの本懐はアンチジェンダーの強制である。

つまり、フェミニストが認める女性像とは『男らしい女性』であり、それ故に『女性らしい女性』を表現、描写すると差別対象となる。女性的表現、描写を環境型セクハラで差別的だから公共の場に相応しくないとし、男性的表現こそが健全で公共の場に相応しいとするのが今のフェミニズムの実態である。

結論として、フェミニストがこれまで行ってきたマンガ、アニメ、ポスターに対する批判は全て、女性的表現描写を差別扱いし、男性的表現描写しか認めないという極めて利己的な表現差別でしかなかったという事なのだ( ˘ω˘ )

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