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生きることを考え、ひとまず余生を送ることを始めてみる。

いきなり前回の投稿から1か月も空いてしまいましたが、僕は本日をもって、余生人(老後に悠々自適な生活を送っている人々)としてデビューすることにしました。いきなりあこがれの先人たちのフィールドに土足で踏み込むような暴挙に映るかもしれませんが、いろいろ考えた結果、僕の中での心持ちや、余生人を名乗る覚悟も固まったので、ひとまず歩みを始めてみることにしました。

「生きる」をテーマにスタートしたこのブログ。では一体、僕がなにをもって生きてると考えているのか。そしてなぜ、このタイミングで余生人としてデビューに踏み切ったのかを今回は語ってみようと思う。

僕の考える「生きる」は、だいたい下の2つに集約できます。
まず一つは、死なないこと
そしてもう一つは、生かされないこと

死なないこと 人生を唐突に終わらせないために。

まず、僕は死ぬことを前提に生きています。老衰で人生を終わらせることができれば、それはもちろん理想だけど、事故に遭う確率も、癌になる確率も、流れ弾に当たる確率だってゼロではないと思っている。野生で暮らす生き物たちほどには死が身近でないにしても、事件や事故に巻き込まれたり、不治の病に冒されて非業の死を遂げる人たちが一定数存在していることを知っている。

誰かに強引に人生を終わらせられてしまった、いわゆる「なんの罪もない」人たちと僕に、決定的な違いなんてものは存在しないだろう。彼らが死ななくてはいけなかった理由なんてないし、僕が生き残ってていい明確な理由だってない。全ては単なる確率の問題だ(同じ理由で、僕が宝くじに当たったっていいはずだとも思っている)。

例えば今日、事故に巻き込まれて亡くなった方にだって、昨日までたくさんの悲しいニュースに心を痛めたり、週末の予定を心待ちにして、天気予報に一喜一憂していた日常があったはずだ。まさか自分が当事者になるなんて夢にも思わず、漠然と老後のビジョンなんかを描いたりしながら過ごした、ありふれた日常が。

だから僕は、生き延びる可能性を最大限に高めるために、これまで不慮の事故に巻き込まれた人の教訓を生かして、少しでも事故を回避できる行動を取りたいし、人の恨みを買うことのないように、できるだけ人には誠実でありたいと思う。

自分や、大切な人の命を守るために行動し、ラブ&ピースの精神で人と接して、穏やかな日常を可能な限り長期間維持し続ける。これが僕の一つ目の「生きている」だ。

生かされない 自分の意志で心臓を止める

もう一つはごくシンプルな話で、僕は若い頃に、サザエさんの作者である長谷川町子さんが、「70歳を過ぎたら治療は受けない」というポリシーを貫き、72歳で召されたいうニュースを聞いた記憶がある。彼女が老いと病を峻別し、人生の引き際を見定め、自分の意思でその幕を下ろしたことに、当時の僕は強い畏敬の念を抱いたことをよく覚えている。

そんな逸話が頭の隅のに残っていた影響かどうかはわからないけど、厚労省が政策に掲げている人生100年時代とかも個人的には全く響かない。ぶっちゃけ後期高齢者の医療費なんて全額自己負担にして、その資源(税金)を次の世代のために明け渡す政策をぶち上げたほうがよっぽど建設的ではないかと考えている。

人の世話にならず、元気に動けるうちにいろんなことに挑戦して、やりたいことを全部やってしまいたい。逆に、体の自由が利かなくなって、何かをやりたい気持ちをなくしてしまったときは、もうそれを老いと認定して、制度や政策に惑わされることなく、僕も自分で自分の人生の幕を下ろそうと思う。それが70歳なのか、80歳なのか、はたまた60歳なのかはわからないけど。

だから余生をスタートさせる

さて、上で自分がどう生きたいかを書かせてもらいましたが、もちろん、この理想の通りに人生が進む保証なんてものはありません。明日、流れ弾に当たってしまう可能性がなくなることもありません。だから僕はやってくる保証のない老後を待つことなく、とにかく余生をスタートさせてみようと考えました。「あまった人生」ではなく、「のこった人生」と位置付けて。

僕は今月からフリーランスで働き始めました。自己責任、自己裁量で仕事をしていきたいという思いから下した決断ですが、余生人の第一歩としては悪くないスタートじゃないかな、と思っています。

ということで、次回からは様々な挑戦や活動の軌跡などをこのブログに残していく予定です。あまり間隔を開けずに更新されることを、一緒に祈ってください(笑)。

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