知識を共有するということ

文を書くと興奮する

変な意味じゃない。ただ、昨日の記事を書くにあたり、内容を考えて文章を考えて、画像持ってきたりスクショ撮ったりしていると、どんどん楽しくなって寝られなくなってしまった。今のところ毎日記事を書き続けていることを考えると、私は文章を書くことが好きなのだろう。一つ趣味が出来た。趣味は作文ですといっても、誰にもわかってもらえなさそうだけど。

昨日、3時間くらいかかって今までで最長の記事を書いた。今まではただの日記だったり、日中の思考のこねくり回しを文章にしていただけだが、昨日は違った。需要があるかは決してわからないが、私が知っていることや試したことを文章に起こすという経験をしたのだ。

それは主観を文にするのとは違う視点や考え方が必要だと感じた。まず(最低限の)正確性がいる。好き勝手書いていい日記とは違い、情報を伝えるためにはある程度は調べる時間が要る。そもそもその情報が本当に必要かも検討しなくてはならない。色々迷っているうちに、想定の倍くらいの分量になってしまった。

そもそも昨日の記事は完全に自己満足で、需要も全く考えていなかったし果たしてこの記事を見るひとがどのレベルの情報を求めているかもこっちはわからない。だから、こっちがある程度見る人、ターゲットを絞って記事を書く必要があったのだろう。私はなんでも詰め込んであらゆることに対応するものを好む習性がある。

例えばゲームなどでも、よく全ての敵にある程度効く万能な物理特化型と、特定の敵に非常によく効く属性型の武器がある。そういう時、私は大体万能型を選ぶ。ゲームの話だし、全く大した話ではないのだが、何が出来るか、何が得意かということよりも、何が苦手か、何が出来ないかということを気にしてしまう。弱点を先に見てそれを避けようとしてしまう。中途半端な器用貧乏よりも一点特攻型の方がいい場合もあるはずだが、今まで私はそういったことを考慮して来なかった。

同じことが昨日の記事で起こっていた。本当に書きたいのは最後の方に書いたことで、既にオンラインレッスンを受けられる状態の人にもっといい音でレッスンを受ける方法もあるんですよという話をしたかったのだが、気がついたらまずオンラインレッスンを受けるために何を買うべきかという話をしていた。

結果として、初心者からしたら話がどんどん進んで難しくなっていく印象を受けるだろう。なぜなら筆者である私が本当に書きたいことはもっと難しいことで、初心者が必要としている情報は前提みたいなものだからだ。

一方で私の言いたかったことが知りたかった人からしたら、すでに知っていることが延々書いてあって欲しい情報までなかなかたどり着けない。結局、誰のためになんのために書いているのかがブレるのが一番良くないのだという教訓になった。

万能型に憧れるのは悪いことではない。しかし、何かを捨てる勇気を持つことも時には必要なんだな、と感じる今日この頃。

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