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林檎 と 初恋くらい

初恋 島崎藤村

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情けに酌みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ


この詩に出会った時の記憶はいまでも鮮烈だ。
小学校の国語の教科書。余白が多くてすぐ読めるからと、詩のページだけ拾い読みしていた時のこと。

まだ知らぬ恋の甘さと楽しさ、あどけない官能。当時の私にとって、それは少し恥ずかしく、同時に美しいイメージがはっきりと浮かぶ新鮮な詩だった。

第一連、第二連と進むうちに、ふたりの距離は徐々に近づいていく。第三連ではため息で髪が揺れるほど親密な距離感だとわかる。最終連ではふたりが逢瀬を重ねるために踏み固めた道を、愛おしげに振り返ってみせる。

これほどの短い詩の中で、恋の始まりから成就までを鮮やかに描いています。それはちょうど、林檎の木が花を咲かせて実をつけ、熟れた実がぽとりと地面に落ちる、自然のサイクルのように。

林檎ほど初恋にぴったりのイメージがあるだろうかと、幼い私の詩心はふるわされました。いやむしろ、この詩のおかげで、林檎と初恋はぴったりな取り合わせになったのかもしれません。


年を重ねるごとに、自分に「ぴったり」くる感覚が少なくなってきているように思います。

若い頃なら、面白いことや好きなことに向かって盲目的に突き進むことができました。今考えたらあきらかに間違った人に恋したことも、美術の世界に足を踏み入れたことも、家にこもって何時間も詩作や絵描きに励んだことも。今やっていることは、本当に自分に合っているのか、なんて考えもしませんでした。たぶん、それらすべての行動は当時の自分に「ぴったり」だったんだと思います。無意識に励んでいるうちに、そうなっていったのかもしれません。


今になって、そんな感覚が薄れていることに気づきます。昔よりも経験が積み上がっているのだから、「正解」にすぐにでも近づけそうと思うのですが、事実は結構真逆だったりして。

知りすぎたのか、経験が邪魔するのか。自分がしていることが自分にとって正しいことなのか、これでいいのだろうかとつねに考えている。大人になるにつれて複雑になる世界に、まだ対応できていないのかもしれない。いやむしろ、これが大人になるってことなのかもしれない。だとしたら、それは少しつらいことだ。


藤村の『初恋』のような、みずみずしく心地よいリズムの詩を読んで心が満たされるのは、私があれこれ考えすぎる面倒な大人だからなのかもしれません。あの頃は知らなかった、人に詩が必要な理由が、今でこそ分かる気がします。

懐かしい一編の詩から、がむしゃらだった青春の断片を拾い集めて、そんなことを考えている金曜の夜です。
もう少し丁寧に掘り下げて書きたいのですが、すこし疲れてしまったので、今日はこのまま藤村の詩に浸ってみたいと思います。

ちょっと疲れたとき、なつかしい詩を読んでみるの、おすすめです。

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