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30代、いま考える友だちのこと

30代になって、友だちについてよく考えるようになった。人生の新しいフェーズに入ったという感覚にともなって、友だちとのひそやかな別れや、新しい出会いや再会をすることが増えた。都会的な遊びや少しの贅沢、くだらなさも味わいも増した会話を通して築く関係性に心から幸せを感じる反面、気持ちが離れていく寂しさや距離の保ち方に困惑することもある。


学校や大学というコミュニティから離れて久しい。毎日顔を合わせるのは職場の人たちと家族くらいになったいま、学校で当たり前のように毎日会えていた友だちとは、わざわざ時間を作り、約束を取りつけ、お金をかけて会わなければいけない。ただでさえタイパ重視の世の中。相手の時間を奪う行為に少しの罪深さを感じたりもする。会うからには有益な時間にしなくちゃ…気負ってしまうこともしばしば。こういう時、大人になっちゃったなぁと思う。


とはいえ学生の頃の友だちとはほとんど疎遠になってしまった。結婚や出産などの大きなライフイベントもあるだろうけど、なんとなく「合わなくなった」という感覚が生まれて、自然と離れていくことの方が多い気がする。インスタのストーリーを見ていて思う。真夏の野外フェスやキャンプやゴルフは一緒に楽しめないんだよなあ。こんな時少し悲しくなるけど、私はもう色気のある(!)30代だ。あきらめることを知っている。別に絶交というわけではないけど、ほどほどの距離感で、密かに彼らの幸せを願っていようと思える。


疎遠になった幼なじみと再会してまた仲良くなることもある。これは本当に嬉しいし、素敵なことだ。
けれど、再会するきっかけが共通の幼なじみの死ということもあるのだから、つらい。友情はふたたび育まれたり、思いもよらず途切れたりする。こういうのも人生なのかと、思い知ってまた大人になる。



大切な男友達がふたりいる。
大学のゼミ仲間である彼らとは2ヶ月に一回くらいのペースで遊ぶ。展覧会に行ったり、映画を見たり、めったに食べないような外国の料理を食べに行ったり。安い居酒屋で、近況や学生時代の笑い話とか、最近面白かった作品の話、創作論について議論することもある。彼らと共にする文化的な体験や、くだらない話や結論のないディスカッションは心から楽しい。マウントの取り合いや嫌味や悪口がない会話はなんて清らかだろう。彼らのような友達がいることを誇りに思うし、他の人に自慢して回りたいくらいだ。


余談だが、「男女の友情は成立する?」という質問は大嫌いだ。
結局のところ成立「しない派」人のエピソードを聞きたいだけの質問であり、「する派」の話など、これっぽっちも興味がないのだ。人のセックスの話を引き出したいだけ。そんな浅はかさで、大好きな友だちのことを語らせないでほしい。


30代になってから、これまでの人生で培ってきた価値観が、いまどんな人と付き合っているかに現れ出ているという気がする。ある意味、残酷にも。自分はすごく冷淡で、無意識に人を切り捨ててるのではないかと時々不安になるけれど、相手を傷つけないように、距離を置くのはむしろ必要なことだと思う。相手と自分の時間を守るためだから。変化をしていくことが生きることなら、人とのつながりも変化していくはずだ。


大好きな映画の、大好きな台詞がある。

「何かいい物語があって、それを語る相手がいるかぎり、人生は捨てたもんじゃない。」

“You’re never really done for as long as you’ve got a good story and someone to tell it to.”

映画「海の上のピアニスト」より


結局のところ、いい物語を共有できる人さえいれば、私はそれで満たされるのかもしれない。感受性を大切にし、話をしずかに聞いてくれ、心の内を穏やかに話してくれる人。現実でも創作でも妄想でもかまわないから、そんな人と物語を語り合いたい。まずは自らがそんな人になるために、日々心を耕していかなければと思う。

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