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あるブリュッセルのレース商の物語 その4

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


前回までのあらすじ
 ブリュッセルのレース商人ゴドフロワ夫人は2人の子供に恵まれ、夫の亡きあとを引き継ぎ店を切り盛りするなかで息子の友人のパリのレース商たちと知り合うことになったのでした。

パリのレース商人たち

ー 2人のヴィルヌーヴ氏

 ゴドフロワ夫人のパリへの招致にむけて活動していたヴィルヌーヴ・ド・ボワロジェ氏は、ゴドフロワ家がパリへと赴くように仕向けるために夫人の姉のフカール母娘もパリにいれば会いに来やすくなると唆すのでした。

 フカール夫人には気立がよく美しいひとり娘がいました。この美しい娘に2人のヴィルヌーヴ氏は恋心を抱くことになります。

 もう一人のヴィルヌーヴである、ヴァロン・ド・ヴィルヌーヴ氏は1749年にゴドフロワ夫人と取引をはじました。彼の商売はカディス経由でスペイン王国にアントウェルペンのボビンレースを販売することでした。

 アントウェルペンで作られるレースは、こうしてスペイン王国によって植民地の中南米へと輸出されて現地の市場に広まり【 プンタス 】と呼ばれていたのです。

ビセンテ・アルバンの描いた『奴隷を連れた上流婦人』 ( 1783年 )
カディスの港からは中南米に向けてフランドル製のレースが大量に輸出されて現地の需要を満たしていた

 1751にヴァロン・ド・ヴィルヌーヴ氏はブリュッセルを離れヘントを経由してパリに戻り、マレ地区近くのピュイ通りに居を構えました。

 彼は1745年にはじまった《 オーストリア継承戦争 》によるルイ15世のネーデルラントへの侵攻の軍隊に交じってフランドルへやってきたようです。

 当時の交通網は主に陸軍の行軍用に整備されていたものが多く、高額の商品を扱うレース商人は常に軍隊とともに行動することで遥か遠くの地への行商を可能にしていました。

 軍隊に守られながら時には軍の高官にレースを商う、商魂たくましい彼らは一挙両得を狙い戦争を自らの利益に結びつけていたのです。

ー フカール夫人の娘

 フカール夫人の娘は敬虔な人物でした。彼女の慈悲深さや親切心は2人のヴィルヌーヴ氏を舞い上がらせ、彼らは恋の懊悩に苦しむことになりました。

 ヴィルヌーヴ・ド・ボワロジェ氏ゴドフロワ夫人のパリへの招致にも失敗し、献身的なフカール夫人の娘の態度は愛想の良さだけで、彼への恋心を持ち合わせてはいなかった事実に打ちのめされ後悔の手紙をゴドフロワ夫人に認めるのでした。

 信仰心からフカール夫人の娘が修道女となることを決意した時に、もう一人のヴァロン・ド・ヴィルヌーヴ氏は思慮の浅いことだと彼女を詰りました。

 《 修道院に入りたいと願うのは盲目の恋のようなもので、この2つの恋の情熱は持ってしまうと人はどうしようもなくなってしまうものだ 》

 傷心の彼ら2人のヴィルヌーヴ氏はパリのカーニヴァルの舞踏会に繰り出し、いく晩も踊り明かしてブリュッセルで罹った《 恋わずらい》の熱病を治したようです。

 《 男というものはいつも気まぐれに恋をし、気まぐれにそれを治す 》

 その後ヴィルヌーヴ・ド・ボワロジェ氏はパリのレース商のマドモワゼル・マメットゴドフロワ夫人に紹介し、夫人はマドモワゼル・マメットと取引をはじめました。

 しかしマドモワゼル・マメットの商売は小規模で、その店の建つサン・ルイ通りという場所も決して恵まれた環境ではなかったのでゴドフロワ夫人に大きな利益はもたらさなかったのでした。


ニコラ=ジャン=バティスト・ラグネ ( 1715-1793 ) 画『 ポン・ヌフからのパリの眺望 』 ( 1763年 )

ジャン=バティスト2世

ー パリのブリュッセル人

 ドゥネイ氏を頼りロンドンに長く滞在した後で、ゴドフロワ夫人の息子のジャン=バティスト2世は結婚を機にパリに定住することになりました。

 フランス王国の中心地パリに居住することで得られる商売の機会を求め、少年時代を過ごしたブリュッセルを離れて家業であるレース商を続けることを決心したのです。

 拠点を移したジャン=バティスト2世はパリからゴドフロワ夫人や、商品の手配をしてくれる妹の【 ラ・プティット・ムール 】と連日のように連絡を取り合っていました。

 月日は流れて当時のフランスでは、奔放な私生活で知られた国王ルイ15世の御代も50年目を迎えていました。

 ジャン=バティスト2世はヴェルサイユ宮殿にレースを納め、1764年12月には1,600リーヴルの大金で特権を買い取ったのです。

ルイ15世時代のヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊
ニコラ・コッサン画『王太子の婚礼祝祭の仮面舞踏会』 ( 1645年 )

 そして、ジャン=バティスト2世は妹に宮廷に仕える【 御用商人 】としてフランス宮廷に迎え入れられたことを手紙で報告するのでした。


つづく

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